写真提供:Stan Shebs
ウスペンスキー大聖堂は、クレムリンの大聖堂広場に面しており、1475~1479年にかけて、イタリア人建築家アリストテレ・フィオラヴァンティによって建設された。
ウスペンスキー大聖堂は、和訳すると「生神女就寝大聖堂」。生神女の永眠を記憶する祭である「生神女就寝祭」を記憶する聖堂という意味だ。
モスクワ大公国の興隆を象徴
モスクワのウスペンスキー大聖堂は、モスクワ大公国の興隆を象徴する。その基を築いたのは、イワン1世(あだ名はカリター=金袋)だ。
14世紀前半に府主教ペートルは、イワン1世に対し、ウラジーミルのようなウスペンスキー大聖堂をモスクワにも建てることをすすめ、白い石造りの教会が建てられた。
しかし、発掘調査で明らかになっているように、これはウラジーミルのそれよりもずっとこじんまりとしたものだった。
イワン3世(1440~1505)の時代になると、この比較的小さな聖堂は、国家の勢威にそぐわないものと感じられてくる。彼の治世には、モスクワ大公国は、「タタールのくびき」から解放され、ほぼロシア全土を支配下におさめている。
稀な大地震で崩壊
そこで1472年に、プスコフの建築家クリヴツォフとムイシュキンによって新大聖堂の建設が始められたが、1474年5月、既にドームまで完成していた聖堂は、地震で崩壊した。
年代記によると、「深夜一時に、ドームまで完成していた聖堂は崩落した。大地が揺れ動いたように、あらゆる聖堂も揺れ動いた」。モスクワには稀な大地震だった。
ロシアの伝統にルネサンス様式を統合
イワン3世は今度は、イタリアのボローニャ出身の名高い建築家アリストテレ・フィオラヴァンティを招き、大聖堂建築を依頼した。フィオラヴァンティは、ウラジーミルに出向いて、当地のウスペンスキー大聖堂を研究した。
彼は、ロシアの伝統にルネサンス様式を統合し、1475年に着工、79年に成聖式が執り行われた。
新大聖堂では、ロシア革命にいたるまで、歴代ツァーリ、皇帝の戴冠式が行われたほか、数々の歴史的事件の舞台となった。
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