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アナスタシア・ロマノヴナは、大貴族ザハーリン家(のちのロマノフ家)の出で、17歳の若きイワン4世に、ビザンティン以来の伝統である花嫁コンテストで選ばれた。叔父のミハイルは、イワン4世の後見人だった。1547年にウスペンスキー寺院で結婚式。
美徳を一身にそなえた良妻賢母
彼女の容貌は、とても小柄で、黒髪、黒い瞳に、整った顔立ちだったと、同時代人は語っている。人柄については、愛情深く、信心深く、賢く、気性の激しい夫をうまくなだめることができたという。「あらゆる女性的美徳を一身にそなえた良妻賢母」であったという点で、同時代の証言は一致している。なお、アナスタシアは、刺繍がとても好きで、彼女の手になる作品が多数残されている。
イワン4世は、妻の死後、6回結婚するが、折に触れ、アナスタシアを偲ぶことになるだろう。
ロマノフ朝成立につながる
6人の子供をもうけたが、成人したのは次男イワンと3男フョードルのみ。イワンは、後に父に撲殺され、フョードルは帝位につくが、子を残さず、彼の死後、リューリク朝は断絶する。
しかし、リューリク朝とロマノフ家が姻戚になったことが、後年のロマノフ朝成立につながる。アナスタシアは、「大動乱」の収束後に即位したミハイル・ロマノフの大叔母にあたる。
水銀の異常な量
アナスタシアは度重なる妊娠、出産と不可解な病で、次第に衰弱していった。モスクワの大火で、彼女はコローメンスコエの離宮に避難させられた後、まもなく没した。
最愛の妻を失ったイワン雷帝は、彼女はロマノフ家の栄達を妬む大貴族たちに毒殺されたと、アンドレイ・クルプスキー宛の手紙などに書いている。
1996年に発表されたアナスタシアの遺体の調査では、髪の毛、身体のほか、衣服からも、大量の水銀、砒素、鉛が発見されている。当時、水銀は、治療薬と化粧品としても使われていたが、仮に毎日そのために使用したとしても、このような量にはならないという。
根深い対立
この悲劇以降、イワン4世には、大貴族への猜疑心を異常につのらせ、残虐さと奇矯さが目立つようになる。晩年の1581年には、後継者に定めていた息子イワンを殴り殺している。
雷帝と大貴族の対立には、外戚となったロマノフ家へのさや当てのほか、もっと根本的な理由がある。16世紀ヨーロッパでは、絶対君主制が発展し、列強の力関係が激変しつつあり、イワン4世も、貴族層の権力抑制と自らの専制を目指したことだ。
雷帝も毒殺?
1584年、イワン4世は死去する。1963年の遺体の調査では、砒素と大量の水銀が発見されており、暗殺説もあるが、確定されていない。
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