エルマーク
エルマーク(?~1585)は、ヴォルガ川で活動していたコサックの首領で、ストロガノフ家の援助とイワン雷帝のお墨付きを得て、シビル・ハン国を攻撃し、いったんは首都を陥落させ、シベリア征服のきっかけをつくった。
エルマークの外貌
エルマークは生まれた年も場所も出自も、よく分かっていない。名前のエルマークも、本名エルモライの愛称だという説もあれば、単なるあだ名だという説もある。
その外見については、彼の遠征に参加した者が伝えるところでは、「とても勇敢で、善良で、押し出しが立派で、あらゆる知恵を備え、黒いひげを生やし、中肉中背で、肩幅が広かった」(レメゾフ年代記)。
シビル・ハン国に遠征
エルマークは1580年代初めに、シベリアで農業、狩猟(毛皮)、製塩、鉱業などを経営していたストロガノフ家の援助を得て、1581年9月1日に、シビル・ハン国への遠征に出発する。
クチュム・ハン率いるシビル・ハン国は、キプチャク・ハン国が分裂してできた4つの国の一つだ。西シベリアの広大な地域を支配し、カシリク(現在のトボリスク付近)を首都としていた。しかし、版図に比べて人口は少なく、外務省に相当する当時の役所の資料によると、ヤサク、すなわち毛皮などの現物税を納めていたのは3万人以下だった。兵力は、約1万ほどあったが、装備はエルマーク軍よりはるかに劣っていた。
約500名でいったん首都を占領したが・・・
遠征隊は、総勢約540名のコサックから成っていた。遠征は、エルマークが主張したとも、ストロガノフ家の意向とも言われる。
エルマークは、快進撃を続け、翌1582年に、ハン国の首都カシリク付近でのイルティシ川の戦いで、ハンの軍隊を潰走させ、同年10月26日に首都に入城した。ハンと残党は、南方の草原に逃れた。
だが、もともと寡兵であったエルマーク軍は激減していた。
甲冑の重みで溺死
やがて、エルマーク軍に対するハン国の逆襲が始まり、主だったコサック隊長たちも次々に戦死する。
1585年8月6日、エルマークも戦死する。彼は、50名の部下とともにイルティシ川を移動していたが、ヴァガイ河口で夜営しているところを、クチュム・ハンに夜襲され、全滅した。
言い伝えによると、エルマークは奮戦したが、船まで泳ぎ着こうとして、イワン雷帝から贈られた重い甲冑のために溺れ死んだ。
しかし、ロシアのシビル・ハン国への攻撃は続き、ハン国はついに1598年に滅亡する。
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