スヴャトスラフ・リヒテル、1996年=ユーリイ・スチェルビーニン撮影
父の一風変わった教育
リヒテルは、1915年に、ウクライナのジトーミルで生まれた。父は、オデッサ音楽院で教鞭をとっていたドイツ人のピアニスト、オルガニスト、作曲家のテオフィール・リヒテル(1872~1941)である。母は、ロシアの貴族の出であるアンナ・モスカリョワ。
幼いリヒテルが最初に熱中したのは絵を描くことだった。後年、彼は玄人はだしの腕前になる。
内戦後の1922年に、家族はオデッサに移り、そこでリヒテルは父にピアノと作曲を教わる。後のリヒテルの回想によると、父から「巨大な影響」を受けたという。その父は1941年、オデッサで処刑される・・・。
父の教育は一風変わったもので、練習曲などはやらず、最初に弾いた曲がショパンの「ノクターン」であった。
1930~32年には、オデッサの船員会館で、その後はオデッサ・フィルハーモニーで、ピアニスト兼伴奏者となった。最初のリサイタルは1934年で、ショパンを弾いた。
「もう教えることはありません」
1937年にモスクワ音楽院に入学し、ピアニストのゲンリフ・ネイガウスに師事した。ネイガウスは、「リヒテルにはもう何も教えることはなかった」と後に語っている。同門の2年先輩にエミール・ギレリスがいた。
ネイガウスの紹介で、セルゲイ・プロコフィエフと親しくなり、戦争中は、彼のピアノソナタ第7番を初演したり、3曲の「戦争ソナタ」でリサイタルを行ったりしている。また包囲下のレニングラードでも演奏している。
1945年には、全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で優勝。1950年代からは、東欧でも演奏会を開くようになるが、西側での公演は許可が長い間出なかった。理由は、プロコフィエフや詩人ボリス・パステルナークなどとの親交のため。彼らが当局から批判を浴びても、リヒテルは関係を絶たなかった。
ベールを脱ぐ「幻のピアニスト」
しかし西側でも、東欧での公演の評判や録音などを通じて、「幻のピアニスト」の評判は高まっていく。とくにプラハでは度々演奏会を行っており、1959年11月のベートーヴェンのピアノソナタ第23番「アパショナータ」などはまさに衝撃的だった(ライブ録音が残っている)。
ついに1960年から、西側でも活動が許され、実像が知られるようになる。日本にも、1970年の万国博覧会以来、何度も来日している。
レパートリーは古典から現代音楽まで厖大で、バッハ「平均律」の全曲などの大曲の録音も残している(これがまた大変な名演だ)。その一方で、曲目は独自の視点から厳選し、じっくり自分の中で熟成させて、時が来るのを待つ人だった。ベートーヴェンもあれほどの名演を残しながら、全曲は録音していない。
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