サロフの聖セラフィムが生まれる

画像提供:wikipedia.org

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1754年の今日、7月30日(ユリウス暦7月19日)に、サロフの聖セラフィムが生まれた。

 サロフの聖セラフィムは、近代で最も尊崇される正教会の聖人の一人である。ニコライ2世の皇室一家は、とくに彼を崇めていた。セラフィムの没後70年の1903年に、その不朽体がサロフで見つかったのを機に、皇帝自らが積極的に働きかけて、列聖を実現している。

 聖伝の伝えるセラフィムの生涯は次のようなものだ。

 

幼時の不思議な体験 

 セラフィムは、クルスクの富裕な商家の生まれだが、早く父を亡くした。

 7歳のときに、教会の鐘楼から落ちたが、怪我一つなかったという。やはり幼い頃に重い病を患ったが、夢に生神女マリア(聖母)が現れて治癒を約した。まもなく、十字行があり、生神女マリアのイコンが掲げられていたのを見た母は、息子を連れ出し、イコンに接吻させると、病が癒えた。

 

サロフの荒野へ 

 1776年、巡礼に旅立ち、キエフ・ペチェールシク大修道院を訪れる。ドシフェイ長老は彼を祝福し、サロフ(現在のニジニ・ノヴゴロド州の南部)の荒野に赴き、そこで剃髪せよ、と告げる。

 1778年、サロフ修道院のヨシフ長老のもとで、見習い修道士になる。

 1793年には修道司祭となるが、翌94年、修道院から5キロほど離れた森に庵(ケリア)をむすぶ。

 夏も冬も同じ衣をまとい、食物は森で得、ほとんど眠らずに、聖書などの宗教書を何度も繰り返し読み、長い時間祈る毎日だった。

 千日千夜、頭柱者として修行したこともある。これは、柱に上りその上で生活する苦行だ。

 

熊を養う 

 当時セラフィムを訪れた何人かの信者は、彼が巨大な熊に手ずから餌を与えていたのを見ている。

 あるとき彼は、数人の強盗に襲われた。盗人たちは、金持ちも彼を訪れることを知って、庵を荒らそうとしたのである。彼らは、森で祈祷中のセラフィムを見つけると襲いかかり、斧の峰で頭を殴りつけ、袋叩きにした。

 当時セラフィムはまだ屈強な若者だったのに、まったく抵抗しなかった。しばらくして傷は癒えたものの、以来ひどい猫背になってしまった。

 盗人たちは捕えられたが、セラフィムが彼らを許したので、罰せられることはなかった。

 

静寂主義を実践 

 1807年にセラフィムは、沈黙の行に入る。誰とも会わず、言葉を交わさず、沈黙による祈りを実践したのである(静寂主義)。内面に集中し、内なる声に耳を澄ますことで、神の叡智が開示される。

 1810年に、ほぼ20年ぶりで修道院に戻ったが、やはり庵室で生活した。1825年からは多くの聖俗の人々を庵に迎えるようになり、病を癒したり、助言を与えたりした。皇帝アレクサンドル1世も彼を訪ねたことがあった。

 彼は何度も、生神女マリアや使徒、聖人を目の当たりにしたことがあるという。

 1833年、祈祷の最中に逝去。

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