ミハイル・レールモントフ
10代で不朽の傑作
レールモントフは3歳で母を失い、富裕な母方の祖母に育てられる。1830~32年にモスクワ大学に学ぶが中退。少年時代から詩作を始め、10代で「天使」、「帆」など、ロシア人なら知らぬ者はない傑作を残している。
1834年にサンクトペテルブルクの近衛士官学校を卒業して任官する。1837年にプーシキンの不可解な死を悼んで書いた「詩人の死」で一躍有名になるが、詩にこめた権力への怒りが当局の逆鱗に触れ、カフカスに追放される。
1838年に首都への帰還を許されるが、1840年にささいなことでフランス大使の息子と決闘したため、またもカフカスに追放。
この間、最高傑作の叙事詩「悪魔」をほぼ完成する。この永遠の反逆児を描いた名作は、多くの芸術家をインスパイアし、作曲家アントン・ルビンシテインは同名のオペラを、画家ミハイル・ヴルーベリは「デーモン」の連作を描いた。
ジキルとハイド
1841年、旧友ニコライ・マルトゥイノフと決闘し、死亡する。理由は、知人たちの証言をつき合せると、底意地の悪いレールモントフが、気のいいマルトゥイノフを散々からかったのが原因だ。マルトゥイノフはおとなしく我慢していたが、「ご婦人方の目の前で」嘲笑されて、堪忍袋の緒が切れ、決闘となった・・・。同時代人たちは、ジキルとハイドのような彼の風貌と言動を記している。
レールモントフの代表作としては、ほかに「仮面舞踏会」(1835)、「商人カラシノコフの歌」(1837)、「ムツィリ」(1839)、そして散文の名作「現代の英雄」など。
「第二反抗期の少年風」
筆者の知人は、「レールモントフって良いけど、どれも第二反抗期の少年風だなあ」と言った。たしかにその通りだが、その“不良少年”があんなに魅力的なのはなぜか。不良少年なら誰でもレールモントフになれるわけではない。肝心なのは自分の限界まで行くことだ。
最後に、彼が10代で書いた「帆」を掲げる。自分の生涯を何もかも見通していたかのような洞察力がみごとだ。
白い帆かげがただひとつ
海の青い霧のなかで!・・・
遠き国に何を探しているのか?
故郷に何を見捨ててきたのか?
波はさかまき、風はが吹きすさび、
帆柱はたわみ、きしむ・・・
ああ、白帆は幸福を求めもしなければ、
幸福から逃げるわけでもない!
下を見れば瑠璃より明るい潮、
上を見れば金色の陽光・・・
だが白帆は世に背き、嵐を求める、
嵐にこそ安らぎがあるかのように!
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