ネヴァ号
スポンサーは皇帝と国策会社「露米会社」
周航の資金援助は、皇帝アレクサンドル1世と「露米会社」が行った。同社は、外交官ニコライ・レザノフによって設立され、極東と北米での殖民地経営と毛皮交易を独占する、ロシアの国策会社だった。
目的は日本、清との交易拡大など
航海の目的は、清、日本との交易開始、南米の交易拡大、カリフォルニアの植民地化の事前調査などだった。
ネヴァ号とナジェージダ号の2隻に、海軍士官アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンとレザノフ、仙台藩出身の津太夫など日本人漂流民4人、学者らが乗り込んで、クロンシタットから、デンマーク、イギリス、カナリア諸島、ブラジル、南米最南端のホーン岬を回り、太平洋へと進んでいった。
津太夫らは、はからずも世界一周した最初の日本人となる。
日本との関係のこじれ
その後、北太平洋で2隻の航路は一時分かれ、クルーゼンシュテルンが率いる旗艦ナジェージダ号は日本へ、ネヴァ号はアラスカへと向かった。
前者には遣日使節としてレザノフが乗っており、1804年9月に長崎・出島に入港して、幕府と交渉する。
レザノフたちは、およそ半年間も出島に留め置かれたあげく、翌1805年になって長崎奉行遠山景晋(「遠山の金さん」の遠山景元の父)から通商拒否を通告される。
実質的に日本の外交を担当していた老中・土井利厚は、「レザノフに乱暴な応接をすれば、ロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もし、ロシアがそれを理由に武力を行使しても、日本の武士はいささかも引けはとらない」と判断したという。
かつてラクスマンが、大黒屋光太夫を送り届けてきたときに、幕府は信牌(しんぱい=通行許可証)を与え、レザノフはそれを持参していた。
ここでの交渉の不成功が、7月23日の「今日は何の日」で書いたように、1806年に、レザノフの部下ニコライ・フヴォストフによる松前藩の番所などの襲撃につながり、1811年のゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の逮捕と、日露関係のこじれに発展していく。
丸3年で世界一周
ネヴァ号は帰途、中国南部からイギリスまで142日間無寄港で航海したが、これは当時の記録だった。
1806年8月、艦隊はクロンシタットに帰港し、ロシア最初の世界周航を成し遂げた。
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