ニコライ2世と家族
革命の震源地からシベリアへ移送
1917年2月に「2月革命」が起きて、ニコライ2世は退位に追い込まれ、しばらくは首都にとめおかれるが、やがて、臨時政府首班のケレンスキーによって、シベリアのトボリスクに送られる。
ペトログラードにいたのでは、いつ君主制擁護派などの反政府勢力に奪われ、旗印に利用されるかわからなかった。トボリスクは、第一次世界大戦の戦線からも、鉄道からも遠く、革命の影響もあまり及んでいなかったので、比較的安全と考えられたのだが・・・。
内戦と干渉
同年10月にボリシェヴィキが権力を奪うと、皇帝一家はエカテリンブルクに移送されるが、やがて内戦が激化し、西シベリアのオムスクには白軍の臨時政府が樹立され、ボルガ沿岸のサマーラもボリシェヴィキに反旗を翻した。エカテリンブルクは、この2都市を結ぶ中間点に位置する。
しかも、1918年春から外国による干渉も始まる。わずか数万人のチェコ軍団がシベリア鉄道沿線を占領できるなら、分捕り放題ではないか!チャンス到来!というわけだ。
ロシアは、世界大戦で疲弊し切り、あちこちに反政府勢力が跋扈し、しかも、欧州列強と日本の近代的な軍隊がいっせいに侵入してくる・・・。
もはや、皇帝一家の身柄を他へ移す余裕などない。こういう政治的判断は、ウラル・ソビエトにも、ボリシェヴィキ幹部のなかにもあった。
「我々がここで決めたのさ」
一家殺害後に、公開裁判を支持していたトロツキーは、スヴェルドロフに、処刑の決定がどうしてなされたのか聞いた。
スヴェルドロフは、「我々がここで決めたのさ。イリイチ(レーニン)も、白軍に彼らを団結させるシンボルを与えるわけにはいかないと確信していた」と答えた。
確信していた。しかし命令は、文書の形では残っていない・・・。歴史ではよくあることだ。
この目を覆いたくなるような惨劇については、処刑執行者のヤコフ・ユロスキーの手記が残っており、邦訳もある(例えば、カレール・ダンコース「甦るニコライ二世」の付録II)。
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