ミハイル・ロマノフ死す

画像提供:wikipedia.org

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1645年の今日、7月13日(グレゴリオ暦7月23日)に、ロマノフ朝の最初の君主であるミハイル・ロマノフが逝去した。

リューリク朝の姻戚の名門 

 ミハイル・ロマノフは、1596年に名門ロマノフ家に生まれた。父は、のちにモスクワ総主教フィラレートとなるフョードル・ロマノフ、母はクセニヤ・シェストワ。

 ロマノフ家は、リューリク朝の姻戚にあたる大貴族で、ミハイルの大叔母は、イワン4世(雷帝)の妻で、フョードル1世の母であるアナスタシアだ。

 

修道院送り 

 ミハイルの父フィラレートは、後の経歴が示すように大した辣腕の持ち主だった。ボリス・ゴドゥノフがツァーリに選出されたときには、うまくボリスにくっついたが、その後疎まれて、1601年に妻もろとも出家させられてしまった。なにしろボリスは、権謀術数でリューリク朝を断絶させ、自分が帝位に上りつめた(と推測される)男だから、フィラレートを警戒したのかもしれない。

 さて、時代は風雲急を告げる。

 

大動乱に突入 

 1605年、「どこの馬の骨とも分からない」ボリスが死ぬと、ロシアにはぽっかり力の真空が生じ、一気に「大動乱」(スムータ)の時代に突入する。

 貴族がお決まりの内紛を起こし、貴族のある者はポーランド、スウェーデンなどの外国とむすびつき、農民は反乱を起こす。ロシアは四分五裂となった。

 ミハイルの父フィラレートは1611年に捕らえられてポーランドに送られ、マルファとミハイルの母子は、1612年にやはりポーランドの追跡を逃れて、コストロマのイパチェフ修道院に隠れる。お先真っ暗かと思われたが、人間の運命というものはわからない。

 

義勇軍がモスクワを解放 

 いつ果てるとも知れなかった動乱が、ようやく1610~11年にかけて、モスクワ総主教ゲルモゲンなどの、外国勢力からの解放を訴える檄が飛びはじめ、状況が変わってくる。
 1611年秋、ヴォルガ沿岸のニジニ・ノヴゴロドで、商人クジマ・ミーニンが軍資金拠出を呼びかけ、ドミトリー・ポジャルスキー公を指揮官として、義勇軍が組織される。

 義勇軍は、同年11月4日に、モスクワの戦いでポーランド軍を撃破し、クレムリンを占拠していたポーランド軍は降伏し、首都は解放された。

 

全国会議でツァーリに選出 

 翌1613年には、全国会議(ゼムスキー・ソボル)で、ツァーリとして当時16歳の少年だったミハイル・ロマノフを選んだ。ロマノフ王朝の最初のツァーリだ。

 リューリク朝の姻戚の名門で、外国と結ぶなどの汚れた経歴がなかったこと、貴族たちがおとなしい性格のミハイルを扱いやすいとみたことなどが選出の理由だ。何もしないで隠れていたことが幸いした。

 

父は総主教兼「大君」に

 父フィラレートも帰国して総主教となり、さらには「大君」の称号を得て、教会のみならず世俗の最高権力も握る。聖俗の権力を一手におさめたのは、ロシアではフィラレートが唯一の例だ。

 まだ、ポーランド、スウェーデンとの戦いは続いており、国土は荒廃しきっていたが、ロシアはようやく、国家再建に向けて歩みだすことになる。

 ミハイル・ロマノフはアレクセイ帝の父、ピョートル大帝の祖父である。