今から70年前、プロホロフカ地区では世界史上最大の戦車戦がくりひろげられた =タス通信撮影
プロホロフカ
7月12日午前8時半、ソ連突撃団はドイツの第4装甲軍に向って進撃。ドイツ軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン司令官は、ソ連軍の進撃を許せば、 ドイツ側の南方軍集団の攻撃団すべてが撃滅することになると悟り、全兵力を投入した。全長200キロメートル以上の巨大な前線で、無慈悲な戦いが行われ る。
7月12日のより激しい戦いは、いわゆるプロホロフカ橋頭堡に変わる。この帯域は7月11日、緊張した戦いの結果、ドイツ軍に占領されていた。橋頭堡では、主要な軍集団が第2SS装甲師団として展開し、戦った。ソ連司令部はこれに対し大きな一撃を加えた。
ソ連のパーヴェル・ロトミストロフ司令官
「我々の第29兵団と第18兵団の最初の部隊の戦車は数分後、前に進みながら砲撃を行ったが、激しい貫通攻撃でドイツ軍の戦闘序列に突撃し、どの攻撃も 命中した。ドイツ軍の『ティーガー』と『パンター』は、我々の他の戦車部隊との戦闘で最初は優勢だったものの、接近攻撃で勢いが落ち、ソ連の戦車T-34 やT-70にまで近距離で撃破されてしまった。戦闘の後、煙や埃が舞いあがり、大きな攻撃によって地面がとどろいた。戦車は互いに衝突し、接触しながら、 退散することなく、どちらかが炎上するまで、または無限軌道がつぶれて停止するまで、致命的打撃を続けた。撃破された戦車でも、戦闘力を失っていなけれ ば、発砲し続けた」。
ソ連のエフゲニー・シュクルダロフ将校・戦車兵
「鉄道に沿って進み、最初の戦車は撃破した。すると100メートルほど先に、こっちに対して横向きに立ち、ソ連軍の戦車に発砲していたティーガーが見え た。うちの戦車に対しても横向きで、側面に発砲していたため、すでにたくさんの我々の戦車を撃破していたようだった。私は硬芯徹甲弾に連結し、砲撃した。 すると相手の戦車は炎上した。さらに砲撃を続けると、もっと激しく燃え、兵士は外に飛び出した。私はこの兵士どころではなかったのでその戦車の先を進み、 III号戦車とパンターをまた撃破した。パンターを撃破した時、英雄的な攻撃をしたという気持ちから、一種の興奮を覚えた」。
ドイツ軍の装甲師団「アドルフ・ヒトラー」のウィルヘルム・リョス戦車兵
「1台のT-34戦車が突然こちらに向って走ってきた。大砲に装填するために、我々の一等通信士が弾頭をひとつひとつ私に手渡した。ソ連軍の戦車がどん どん近づいてきたため、うちの隊長は、上で『撃て!撃て!』と叫び続けていた。4発目を発砲した時、『良かった!』という声を聞いた。しばらく経過してか ら、T-34は我々のわずか8メートル先で止まったことがわかった。型打ちでつくられたような砲塔の上部には、5センチメートルの穴が空いていた。その後 双方の戦闘序列は混ざり合った。我々の戦車兵は近距離から敵をうまく撃ったが、我々の方にも大きな損失があった」。
ドイツ軍の企図を頓挫
ソ連軍の装甲、完全な弾薬一式が積まれた新しい戦車の攻撃は、戦いで憔悴したドイツ軍の師団を震撼させ、その進撃をとん挫させた。
ソ連の主要な勢力である第5近衛戦車師団が、プロホロフカの南西側へ反撃した結果、SS装甲師団の「トーテンコップ」や「アドルフ・ヒトラー」の北東への進撃を防げただけでなく、それ以上の進撃ができない状態にまで相手を打ちのめすことができた。
SS装甲師団「ダス・ライヒ」の一部も、プロホロフカの南側へ進んだ第2近衛戦車師団の一部からの攻撃で、甚大な損害を被った。
損害と結果
プロホロフカにおける戦車戦の結果、ソ連軍は戦車と自走砲500両、ドイツ軍は戦車と自走砲300両を失った。最大の損害は、プロホロフカの戦い前の最 初の7日間で、ドイツの南方軍集団が被ったものだ。だが、プロホロフカの戦いの主な意義とは、ソ連兵が最大の攻撃をしたこと、そしてクルスクに向っていた SS装甲軍を阻止したことである。これはドイツの装甲軍のエリートたちの戦闘意欲を減退させ、その後ドイツ軍勝利への確信を完全に失わせた。
*記事全文(露語)
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