キエフ大公妃オリガ 死す

ニコライ・リョーリフ「大公妃オリガ」、1915年 画像提供:wikipedia.org

ニコライ・リョーリフ「大公妃オリガ」、1915年 画像提供:wikipedia.org

969年の今日、7月11日に、キエフ大公妃のオリガが亡くなった。

 オリガは、ロシア北部のプスコフの出身で生年は不明。夫イーゴリはキエフ大公国の第2代大公だ。

 イーゴリが、東スラヴ人のドレヴャリャーネ族に貢納を課そうとして反発を買い、暗殺されると、オリガは、幼い息子スヴャトスラフの摂政として、国内と周辺部族の動揺を抑え、ドレヴャリャーネ族への復讐を果たす。

 この復讐はその残虐さと執拗さで史上有名なもので、4段階からなる。
 

復讐第1段階 

 イーゴリ暗殺成功で調子に乗ったドレヴャリャーネ族が、オリガに自分たちの公に嫁ぐように求めると、オリガはこう言う。ドレヴャリャーネの使者は、馬や他の乗り物ではなく、船の中に入れ、そして自分が送った使者に、船ごと担がれてやって来い、と。

 彼らが言われた通りに、船に入ってやって来ると、オリガは、予め掘っておいた穴に船を投げ込み、生き埋めにした。

 

2段階
 次いでオリガはドレヴャリャーネ族に使者を送り、自分を妃に迎えたければ、部族の主だった者を使いに送ってくるよう求めた。

 彼らが来訪すると、オリガは蒸し風呂をすすめる。彼らがそのサウナに入るや、オリガは扉を閉め、小屋ごと燃やして、蒸し焼きにしてしまう。

 

3段階 

 さらにオリガは自らドレヴリャーネ族を訪ねる(良い度胸だ!)。そして、夫イーゴリの供養をしたいので、蜜酒を用意するよう頼む。酒盛りで彼らが酔いつぶれると、オリガはオートロク(少年親兵隊員)たちに命じて、皆殺しにする。

 

4段階
 さて、仕上げの第4段階。オリガはドレヴリャーネ族を攻め、首都イースコロステニを包囲する。なかなか陥落しないので、オリガは、家一軒につき三羽の鳩と雀の貢物で包囲を解こうと提案する。
 ドレヴリャーネ族がこれに同意して鳩と雀を与えると、オリガは鳩と雀に硫黄を結わえ付けて、放す。鳥は町に戻り、硫黄が発火して町は焼けた(この話はいくらなんでも嘘くさい)。また、首都以外の町も「平らにした」という。要するに、徹底的に破壊したということだ。

 

税制改革と東方正教会の洗礼 

 オリガはまた、キエフ公国の税制も改革する。それまでは、地方のボスに任せるという効率の悪いやり方だったが、大公直轄の貢税所を設置し、自らが任命した徴税人を配置した。

 さらにオリガは、東ローマ帝国(ビザンチン)への接近もはかり、自ら957年にコンスタンチノープルを訪れて、東方正教会の洗礼を受けた。このことは、ビザンチン側の記録に残っている。

 989年に、オリガの孫のウラジーミル聖公が、キリスト教を国教として導入することになる。

 

なぜビザンチンか 

 オリガは東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)のオットー1世にも使者を送っているが、結局、ビザンチンとの関係を優先していくことになる。

 理由は、ビザンチンの技術、統治制度、文化の導入がひとつ。この帝国は「ギリシアの火」(ギリシア火薬)という焼夷兵器を使いこなす軍事大国でもあった。

 また、ビザンチンもキエフ公国も、黒海北岸にあって猛威を振るった遊牧民ペチェネグに苦しめられていたので、両者の連携は、地政学的にも好都合だった。

 キエフ公国は、黒海からバルト海にいたるドニエプル水系の交易で栄えてきたから、ペチェネグ族の制圧は死活問題だった。オリガの息子スヴャトスラフも、ペチェネグ族に殺されている。

 986年、オリガはキエフで亡くなった。1547年にロシアの女性として初めて列聖されている。