舵手イワン・リャーボフがアルハンゲリスク港を救う

画像提供:wikipedia.org

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1701年の今日、7月5日(ユリウス暦6月24日)に、スウェーデン艦隊に捕らえられた舵手イワン・リャーボフと通訳ドミトリー・ボリソフ(ドミトリー・ボリーソヴィチ・ポポフ)が、敵艦を欺いて浅瀬に座礁させた。

海のイワン・スサーニン 

 この8隻からなるスウェーデン艦隊(828人、大砲127門)は、アルハンゲリスク港と造船所、および建造中の軍艦の破壊をもくろんでいた。白海に面したアルハンゲリスクは当時、ロシア唯一の海港で、欧州との交易はすべてここを通して行われていた。

 リャーボフとポポフは、海兵の上陸とノヴォドヴィンスカヤ要塞の奪取に適した場所を教えるように要求されたが、1701年7月5日、彼らは2隻の敵艦を要塞のまん前の浅瀬におびき寄せることに成功する。

 

死んだふりして逃走 

 敵艦は、座礁して動けなくなったところ、砲火を浴びせられ、応射するも、十時間後に破壊された。

 リャーボフとポポフは銃殺ということになり、ポポフは死亡したが、リャーボフは死んだふりをして、海に飛び込み、岸まで泳ぎ着いた。

 当初、リャーボフは、敵に寝返って幇助した疑いで収監されたが、同年秋に、ピョートル1世の命令で釈放されて褒賞を与えられ、モスクワに送られた。その後の彼の運命は分からない。

 

未曾有の危機にあったピョートル大帝 

 イワン・リャーボフは、その名が、アルハンゲリスク市の通りや艦船に冠せられているほか、小説、映画、芝居などに描かれた。

 17世紀初頭の大動乱の時代におけるイワン・スサーニンや、長篠の合戦での鳥居強右衛門を思わせるエピソードだが、1701年という年は、ピョートル1世が未曾有の危機にあった時期だった。

 前年の1700年8月、ピョートルはバルト海を制する大国スウェーデンを相手に大北方戦争に突入したが、即位後間もない18歳のカール12世に、1700年11月末にナルヴァで大敗し、ロシアの砲兵隊は壊滅していた。

 もし、ここでアルハンゲリスク港を制圧されていたら、かなり歴史の行方は変わっていただろう。

 ピョートルは改革と軍備増強を加速させ、1701年末には砲兵隊を再建し、1702年から反攻に転じる。