皇太子アレクセイ・ペトロヴィチ死す

ニコライ・ゲー画

ニコライ・ゲー画

1718年の今日、6月26日(グレゴリオ暦7月7日)、ピョートル1世の長男アレクセイが獄死した。

大改革者の古風な息子 

 アレクセイは、ピョートル1世(大帝)とその最初の后エヴドキヤとの間に生まれたが、エヴドキヤは、1698年に、夫に嫌われて離婚され、30前の若さで修道院に入れられてしまう。

 ピョートルとアレクセイの親子もそりが合わなかった。

 アレクセイは、唯一の帝位継承者(男児)だったのに、政治や軍事には興味を示さず、母と同じく極めて信心深かった。

 

最後通牒と脱走 

 1715年、アレクセイの妻が男児(のちのピョートル2世)を産んですぐに亡くなると、父は葬儀に際し、息子に手紙を渡す。もしお前が態度を改めなければ、自分は帝位を「役立たずの息子よりも、有益な他人に委ねるだろう」という内容であった。

 しかも、それから約3週間後、ピョートルの2番目の妻エカテリーナが男児を出産する。

 アレクセイは、当時外征中だった父に、いったんは修道院入りの意志を伝えるが、なかなか実行しようとしない。

 業を煮やした父が、帝位継承に意志を明らかにして、自分のもとに赴き、遠征に参加するか、修道院に入るかと選択を迫ると、息子は、側近と愛人をともなってついに出発する。父のもとにではなく、ウィーンへ。神聖ローマ皇帝カール6世は、亡妻の兄であった。カールは困惑したものの、とりあえずアレクセイを匿った。

 

権謀術数のピョートル・トルストイ登場 

 一方、ロシア側は血眼の捜索の末、半年後に居所をつきとめ、引渡しを迫った。オーストリアは拒絶したが、ピョートルが派遣してきた重臣ピョートル・トルストイをアレクセイに会わせることは承知した。

 このトルストイは、ピョートル1世が「お前がこんなに賢くなかったら、とっくの昔に打ち首にしていたのに」と評したという権謀術数に長けた人物である。

 トルストイはまず、ピョートルの手紙をアレクセイに渡した。そこには、「お前は私を怖がっているだろうが、神とその裁きにかけてお前に約束する。もし、お前が私の言うことを聞いて戻るなら、お前に最高の愛情を見せてやる、云々」と書かれていた。さすがに、アレクセイはその手には乗らない。

 トルストイもさるもの。今度は、オーストリアの廷臣を金貨100枚で買収し、ロシア皇太子の本国送還はすでに決定済みだと、アレクセイ本人に伝えさせる(この件に関するトルストイのピョートルへの報告書が残っている)。

 

宿敵スウェーデンに助け求める 

 これでアレクセイは、ウィーンには見切りをつけたものの、ロシアに戻るのはやはり怖い。そこで今度は、ロシアの宿敵スウェーデンに手紙を書き、援助を求める。

 スウェーデンは、アレクセイを帝位につけるため、軍を派遣すると回答した。ところが、その返事がなかなか届かず、その間に、トルストイはアレクセイを脅したりすかしたりして、ついに帰国に踏み切らせる。

 この時点で、皇太子の運命は決まった。

 ピョートル・トルストイは文豪レフトルストイの祖先である。

 

愛人の供述 

 1718年にロシアに戻ると、アレクセイは帝位継承権を剥奪され、すべての罪を認めるなら刑罰を免じると告げられる。

 アレクセイは罪を側近になすりつけようとしたが、愛人のエフロシニヤが、アレクセイは外国の軍隊の助けを借りて帝位を奪おうとしていたと証言し、アレクセイもそれを認める。

 この時点ではまだ拷問が加えられていないことから、エフロシニヤは買収されたとみる論者がいる。

 一方、オーストリア側にも、アレクセイの“クーデター計画”に関する資料が残っている。副宰相フリードリヒ・カール・シェーンボルン伯の皇帝への進言だ。

 「我々がツァーリの国土で、一定の成功を収めることは不可能ではないでありましょう。つまり、反乱、暴動に支援を与えることはできるでしょうが、しかし、この皇太子は、我々がそこから何らかの実質的な利益を引き出すに足るだけの、十分な勇気と知力を持ち合わせてはおりません。そのことは明らかです」。

 とはいえ、アレクセイにどの程度権力奪取の意図があったか、そのために具体的にどう動いたかといった詳細はわからない。アレクセイは愛人の供述をぜんぶ認めてしまったが・・・。

 

死刑宣告後に拷問、獄死 

 アレクセイは、裁判にかけられ、1718年6月24日、反逆罪で死刑を宣告される。アレクセイはその二日後に獄死する。19世紀になって歴史学者ニコライ・ウストリャロフが発見した文書によると、死刑宣告の後で、死の直前にアレクセイは拷問を受けており、それが直接の死因になった可能性があるという。

 土肥恒之氏が指摘するように、ピョートルの大改革に反発する人々は決して少なくなかった。いや、反対派こそ圧倒的多数であり、「それは直接間接に『古ルーシ』への回帰の動きと結びついていた。皇太子アレクセイはそうした人々のシンボルとなりうる可能性があったのである」

(「ロシア史2」、山川出版社、54頁)。