写真提供:Deutsches Bundesarchiv / wikipedia.org
不倶戴天の敵同士
ソ連とドイツは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結んだが、その直後の9月1日にドイツはポーランドに侵攻、第二次世界大戦勃発となるから、ドイツにとっては文字通り、一時的に後顧の憂いをなくすための便宜的な条約にすぎなかった。
しかも、ナチスは、スラヴ人を劣等人種とみなして東方に生存圏を求めることを主張し、共産主義を敵視していた。
だから、こんな条約であの猜疑心の強いスターリンがドイツに対する警戒を解くわけはなかった。事実、独ソ不可侵条約締結直後から、ソ連は軍備増強を加速している。
互いにつのる疑心暗鬼
ソ連は、独軍の破竹の進撃と符節を合わせて、ウクライナ西部、バルト、ルーマニアのベッサラビアと、帝政時代の領土を“回復”していく。これは当然、ドイツの警戒をつのらせる。とくに、燃料をルーマニアの石油に頼っていたので、これはドイツにとって死活問題であった。そのルーマニア国境に、ソ連は強力な部隊を集結させる。
こうして、「やるかやられるか」という雰囲気が濃くなり、ついにはどちらかが我慢できなくなって先に剣を抜いてしまうのも時間の問題か・・・。こういう典型的な状況に陥っていく。
次々に入っていたドイツの侵攻決定に関する情報
そのスターリンとソ連指導部が、独軍のソ連侵攻決定に関するリヒャルト・ゾルゲら諜報員の情報や、チャーチルの警告などにもかかわらず、なぜ初戦であれほどの大損害を被ったのだろうか?
人民委員会議事務局長Y.チャダーエフの回想によると、侵攻直前の6月18日には、独軍の戦闘機の配置と、将来のソ連内における占領地域の司令官任命に関する情報まで、ドイツにいたスパイからもたらされている。
この時期の侵攻を予期しなかった理由は
独ソ間の疑心暗鬼はどんどん強まっていったものの、ぎりぎりの直前まで、将来はともかく、今まさにこの時期に独軍が侵攻するとは、スターリンは考えなかったようだ。
その理由は――
1)スパイ網からの情報では、独軍は冬季の装備を整えていない(事実その通りだった)。
2)ヒトラーは、バトル・オブ・ブリテンで躓いた後、1941年初めにバルカンに侵攻した。4月にはユードスラビアを占領し、さらにギリシャと軍を進め、スエズ運河、中東とエジプトをうかがっていた。石油と交通の大動脈を押えつつ、イギリスを屈服させるためだ。このタイミングで、ドイツがソ連にも侵攻しようとは思えなかった。
長期的にはソ連指導部の読みが当たる
常識的には実にもっともで、長期的にはその読みが当たることになる。ヒトラーは、十分な冬支度もせず、ソ連の工業力と国土の広大さ、補給の困難を軽視し、無理な二正面作戦に踏み切るが、結果は周知の通りだ。
連戦連勝だった独軍は、自信過剰に陥っていた。当時、ソ連機甲師団の実力をいちばんよく知っていたのは、ノモンハンで手痛い目にあった日本軍だったかもしれない。
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