ロシア正教会の総主教アレクシイ2世 写真提供:wikipedia.org
スウェーデンの貴族の末裔
アレクシイ2世、俗名アレクセイ・リディゲル(1929~2008)は、エストニアのタリンに生まれた。ドイツ系で、先祖は、1695年にスウェーデンのカール11世により、貴族に列せられている。当時、エストニアは、スウェーデン領であり、ピョートル1世時代の大北方戦争の結果、ロシア領となった。
激動の時代に
アレクセイの父は1940年に神学校を卒業して、司祭となったが、これは奇しくも、ロシア革命後独立国となっていたエストニアがソ連に併合された年であった。
同国は41~44年には、今度はナチス・ドイツに占領され、その後はまたソ連に再占領される。こういう激動の時代に、アレクセイ少年は育った。
アレクセイは、1947~1949年にレニングラード神学校で、1949~1953年にレニングラード神学アカデミー(現サンクトペテルブルク神学校)でそれぞれ学び、卒業した。
この間、1950年に叙聖されて、エストニアの教区司祭に任命された。同年、司祭の娘ヴェーラ・アレクセーエヴァと結婚したが、1年後に離婚している。
1961年、アレクシイはタリンおよびエストニアの主教に選ばれる。1968年、府主教に選出。1986~1990年にノヴゴロド・レニングラード府主教。
1990年、総主教ピーメン1世の逝去を受けて、総主教に選ばれる。
8月クーデターでの断固たる対応
1991年8月、守旧派が起したソ連8月クーデターでは、アレクシイ2世は、クーデター反対の態度を鮮明にし、断固たる対応をとる。
クーデターの首謀者たちを破門し、ゴルバチョフ大統領の軟禁を非難する一方、軍に対しては、暴力と同胞の殺戮に反対する声明を出した。まだ、クーデターの成否が判然としなかった時点でのことだ。しかも、この声明は拡声器で増幅され、「ホワイト・ハウス」前で待機中の部隊にも伝えられた。
こうした対応は、新生ロシアにおける教会の立場に少なからず影響したと思われる。
連邦崩壊直後から、ソビエト政権に迫害、殺害された皇族、聖職者などが列聖されていく。1995年、初のドイツ公式訪問では、アレクシイ2世は「ソビエト連邦によりドイツに押しつけられていた共産主義の圧政」について公式に謝罪している。
2008年、アレクシイ2世は、モスクワ州のペレデルキノの自宅で、心不全のために死去した。
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