詩人アレクサンドル・プーシキン生まれる

タス通信撮影

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1799年の今日、6月6日(ユリウス暦5月26日)に、詩人アレクサンドル・プーシキン(1799~1837)がモスクワに生まれた。作家イワン・ツルゲーネフが讃えたとおり、近代文章語と国民文学の創造は、大抵の国では1世紀以上もかかって徐々に行われていくものだが、国民詩人プーシキンは、それを彼一代で、その40歳にも満たない生涯で成し遂げた。

 鮮烈なデビュー 

 父は由緒ある家柄の貴族、母方の曽祖父アブラム・ガンニバルは、エチオピアの貴族の出身で、ピョートル1世に寵愛された陸軍大将だった。叔父ワシーリーは詩人で、プーシキン家は、作家で歴史家のニコライ・カラムジンなど、当時の代表的文化人と親交があった。

 1811年に、サンクトペテルブルク郊外のツァールスコエ・セローに開設された、貴族の子弟のためのリツェイ(学習院)に第一期生として入学する(ツァールスコエ・セロは、現プーシキン区で、「琥珀の間」で有名な離宮エカテリーナ宮殿がある)。

 在学中に公開試験で、詩壇の長老ガヴリーラ・デルジャーヴィンの前で自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』(1815)を朗読して激賞され、その名が文壇に知れ渡る。

 

 逆境を糧にする強い精神 

 農奴制を批判した『村』などの、政治的な内容の詩を書いたため、当局により、南部のキシニョフ(現モルドバ共和国の首都)、ついで北部のプスコフに追放となる。この間、孤独な生活のなかで、一方でバイロン、シェイクスピアなどのヨーロッパ文学を学び、他方で乳母アリーナの物語るロシア民話に触れ、彼の内面世界は広がり成熟していく。

 また、首都から離れていたおかげで、1825年のデカブリストの反乱への連座は免れたが、以後、秘密警察の監視下に置かれることとなった。

 1831年、絶世の美少女ナターリア・ゴンチャロワと結婚するが、これは、フランス士官ジョルジュ・ダンテスとの奇怪な三角関係、決闘による死をもたらすことになる・・・。

 しかし、その前年の1830年、父から結婚祝いに贈られたニジェゴロド県ボルジノ村に出向いた際に、そこでコレラ流行のため足止めを食ったのを幸い、執筆に専念して、生涯の代表作を生み出す。韻文小説『エフゲニー・オネーギン』の大部分、短編小説集『ベールキン物語』などがそれだ。プーシキンは逆境を糧にできる強い精神の持ち主だった。

 

 プーシキンの魅力とは 

 ドストエフスキーもトルストイも深く尊敬していたプーシキンの魅力とは何だろうか。両文豪の複雑な大作に比べると、その真価は、とくに外国人には見えにくい。

 そのドストエフスキーが1880年6月に、モスクワのプーシキン広場に建立されたプーシキン像の除幕式で、詩人についてスピーチしている。亡くなるほぼ半年前のことだ。

 ドストエフスキーによると、詩人は、『エフゲニー・オネーギン』において、あらゆる教養で頭を満たしながらも、根無し草になっており、そうであるが故に人を愛せない偏頗なインテリを描き切った。ヒロインのタチアーナは、そのことを深く見抜いている。

 こういう作品は、民衆のなかにあって、その心を自分のものとするとともに、世界の天才の仕事にも共感しうる世界的共鳴の才能がなければ書けるものではない。これがロシア人の目指すべき精神であり、詩人はそのことを預言的に示した――。ドストエフスキーはこう言う。

 筆者の漠然たる印象だが、今でもロシア人は、自分のすべてをかけるに足る何かを探し求めているのかもしれない。彼らは「すべてか、ゼロか」の精神の人たちであり、そこに彼らの困難も幸福もあるような気がする・・・。だとすれば、確かにプーシキンは国民詩人であるに違いない。

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