ウラジーミル・モノマフ(1053~1125) |
ウラジーミルの父はフセヴォロド、祖父はヤロスラフ賢公、曽祖父は、キリスト教を国教としたウラジーミル聖公だ。母が東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘なので、モノマフと呼ばれた。息子にモスクワの創設者ユーリー・ドルゴルーキーがいる。
ちなみに、このリューリク一族の王朝(リューリク朝)は、9世紀のバイキング出身のリューリクにさかのぼり、16世紀まで連綿と続いて、すべての公位を独占した。だから、9~16世紀のロシアで相次いだ内紛は、一族の骨肉の争いということになる。
兄弟分割相続が内紛の一因
キエフ・ルーシの内紛と分裂の一因は、兄弟への分割相続が行われていたことだ。ウラジーミルは、自分が相続したペレスラヴリ・ルースキーにくわえ、スズダリ、ロストフを支配下におさめ、のちに大公国の首都となるウラジーミルなどいくつかの都市を建設した。
その一方で、内紛をやめてポーロヴェツなど遊牧民との戦いに備えるために、諸公会議を開催し、そこで中心的な役割を果たして、着々と地歩を固めていった。
中世ロシア文学の傑作「イーゴリ軍記」で、イーゴリ公が惨敗する相手が、このポーロヴェツだ。ポーロヴェツはやがて、1220年代に始まるモンゴルの来襲で駆逐されることになる。
キエフの暴動をきっかけに大公に
1113年、ウラジーミルの従兄弟にあたるキエフ大公スヴャトポルクの死をきっかけに、キエフで暴動が起きる。キエフの民会(ベーチェ)は、ウラジーミルの即位を請い、1193年5月4日、すなわちちょうど今から900年前に、ウラジーミルはキエフ大公に即位する。
彼は暴動を鎮圧して、高利貸しの利子の制限や、ザークプ(債務奴隷的な農民)の状態を改善する法令などを発し、内政の安定に努めた。
ウラジーミル自身の言葉によれば、彼は生涯に「大きな遠征を83回行った」一方で、内政面でも努力を傾けた。祖父ヤロスラフ賢公の作った法規「ルースカヤ・プラウダ」にもとづき「モノマフの法典」を制定し、反抗的な諸公からは領地を没収して、ほぼ全国を支配下に置くにいたった。
長期分裂傾向はとまらず
しかし、長い目で見ると、各公国の分裂化の傾向をとどめることはできず、ウラジーミルの息子ムスチスラフの没後には再び分裂傾向があらわになる。そして、ほぼ100年後の1220~1230年代に、ロシアは四分五裂した状態で、モンゴルの来襲を迎えることになる・・・。
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