「琥珀の間」の一部 写真提供:wikipedia.org
サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローにある夏の離宮「エカテリーナ宮殿」は、「琥珀の間」で名高い。
プロイセンからピョートル1世への贈り物
琥珀の間の作者は、ドイツの建築家アンドレアス・シュリュターで、1699年以来、プロイセンの王宮の主任建築士を務めていたが、ベルリンの王宮の改築に際し、琥珀をインテリアに使うことを思いついた。琥珀がかつてこのような目的に使用されたことはなかった。
プロイセン王家には琥珀のコレクションがあり、そのなかに琥珀の枠をもつ鏡が3枚含まれていたことも、シュリュターのアイデアを後押しした。
1716年、フリードリヒ・ヴルヘルム1世は、琥珀の間をピョートル1世に贈った。大帝の生前には設置されなかったが、娘のエリザヴェータ・ペトローヴナが、冬宮の謁見の間の装飾に利用した。その後、琥珀の間は夏の宮殿に移される。完成は1770年、エカテリーナ2世の治世のことだ。
1997年にモザイクの一部を発見
独ソ戦に際しては、琥珀の間は、その脆さのために移動させることができず、やむなくガーゼや綿をつめて紙を貼り、封印した。
ドイツ軍は、琥珀の間をケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に持ち去り、ケーニヒスベルク城で、そのドアと壁面を組み立てた。しかし、ドイツ軍が同市から撤退すると、琥珀の間は行方不明になる。
「琥珀の間」探しは、戦後すぐに始まるが、見つからなかった。
ところが、1997年になって、モザイクの一部が、某公証人のもとで発見され、ドイツ当局が没収した。調べによると、ツァールスコエ・セローの離宮で琥珀の間の略奪に参加したドイツ軍将校の一人が、モザイクを公証人に一時的に預けたという。
2000年4月29日、ドイツは、発見されたモザイクをロシアに返還した。
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