1906年4月27日に、第1国会(ドゥーマ)が開会した 写真提供:wikipedia.org
ロシア帝国は、1890年代に蔵相セルゲイ・ウィッテの指導のもとで、フランス、ベルギーなどの外資導入により、シベリア鉄道建設、鉄鋼、石炭、石油など重工業が発展し、いわゆる第二次産業革命が起きたが、自律的に発展したのは、綿工業などの軽工業にすぎず、それが低賃金の出稼ぎ労働者によって支えられる、という脆い構造だった。
出稼ぎ労働者は、ほとんど農村出身で、地主の土地が共同体(ミール)の農民の雇役で耕作されており、自作農は育っていなかった。
恐慌で顕在化した歪み
こうした構造のゆがみが、90年代の好況から一転、20世紀に入って恐慌におそわれたときに顕在化し、1905年に、「血の日曜日事件」や日露戦争での相次ぐ敗北などをきっかけに、第一次革命が起きることになる。
1905年10月17日、1905年革命のさなかに、ニコライ二世が革命の進行を食い止めようと、ウィッテ首相の献策にしたがい、10月詔書を出す。詔書では、言論、集会、結社の自由、議会の開設(皇帝の専制の制限)、選挙権の拡充などが約束されていた。
これはみごとに図に当たり、徐々に革命は収束していく。革命勢力内部でも対立が生じるようになる。
70日間の短命国会
こうして1906年4月27日に、第1国会(ドゥーマ)が開会する。これは下院に相当し、19世紀初頭のアレクサンドル1世の改革で設置された国家評議会が上院となった。
選挙法は地主とブルジョアジーに有利で、第1国会の中心勢力は、小ブルジョア政党のカデットだった(全511議席中161議席)。これに次ぐ勢力はナロードニキ的(人民主義的)なトルドヴィキ(107議席)で、一部農民の支持を得ていた。
第1国会は、偏った選挙法にもかかわらず反政府的で、もっぱら土地問題を審議し、ついには地主所有地の強制的収用の法案まで提出されるにいたった。
7月8日深夜、政府は軍隊を動員して、国会を解散してしまう・・・。
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