写真提供:ドゥナイ(Дунай)
1912年当時のロシアは、ストルイピンによる容赦ない弾圧で、暴動やストライキは押さえ込まれ、また、その後の巨額の外資導入で、ロシア経済は一見好調だった。
外資導入による好況の裏側
事件の舞台は、シベリアのレナ川沿岸にあるイギリス系企業「レナ金鉱株式会社」(通称レンゾロト)の鉱山。この企業はもともと、イルクーツク商人が設立したもので、ロシアの金の実に4分の1を生産していた。
ところが20世紀初めに、ロシアは英露協商が結び、巨額の英国資本を受け入れ、レンゾロトも英国企業の傘下に入ることになる。
株主には、蔵相、首相としてロシアの産業革命を推進したセルゲイ・ウィッテや皇太后マリア・フョードロヴナなど、上流階級も顔を連ね、大きな利益を得ていた。
またも「腐っていた肉」がきっかけ
それを支えていたのは金鉱労働者の重労働で、彼らは劣悪な条件のもとで1日15時間~16時間働いた。しかも、給料の一部は、会社の商店でしか使えないクーポン券で払われていた。その商店が配給した肉が腐っていたことがきっかけで不満が爆発し、労働者は労働条件改善を求めて、全鉱山でストライキを起す(戦艦ポチョムキンの反乱を思わせるエピソードだ)。参加した労働者は約6千人に上った。
270人死亡、250人負傷
軍は、1912年4月16日から17日にかけての夜、ストライキ中央委員会のメンバーをすべて逮捕する。17日昼、約2500人の労働者が集まり、告訴のため検察に向った。だが、軍は労働者に銃弾を浴びせ、地元紙の報道では270人死亡、250人負傷という大惨事となった。
このレナ虐殺事件は、再びロシア全国でのストを呼び起こすことになる。
ちなみに、革命家ウラジーミル・レーニンが、この事件をきっかけにレーニン(レナ川の人)というペンネームを使うようになったという説もあるが、実際には、彼は事件以前からこの筆名を使っている。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。