ピョートル・ストルイピン、1902年。
永遠の課題:土地改革
1862年4月14日、ストルイピンは、詩人レールモントフと縁続きの名門貴族の家庭に生まれる。当時、ロシア社会は、農奴解放後の混乱のなかにあり、地主邸の焼き討ちや大学騒動などが相次いでいた。
農奴解放は、ごく大ざっぱに言えば、時代遅れの農法と借金でにっちもさっちもいかなくなっていた地主貴族の借金を棒引きにしてやる代わりに、およそ半分の領地を取り上げて農民に分配し、農民に高額の買取金を払わせるというものだった。
農民は、地主丸抱えの生活から、わずかな土地と借金を背負わされて路上に放り出されたに等しく、地主もまた、急速に進展する工業化のなか、次第に没落していった。
土地は、銀行、資本家に買い占められ、多くの農民が土地を売却して、低賃金と高地代の悪条件下で働く――。のちに、ストルイピンが首相として改革に当たったときも、基本的な状況に変わりはなかった。
まずは弾圧
ストルイピンは、サンクトペテルブルク大学自然科学部(物理・数学部)を卒業して、1884年に内務省に入り、1902年グロドノ県知事、1903年サラトフ県知事を歴任。その行政手腕と革命運動の弾圧ぶりが中央から注目され、第一次革命後の1906年4月、イワン・ゴレムイキン首相の下で内務大臣となり、同年7月に首相に就任する。
第2国会が、第1国会以上に、左派色、革命色が強かったので、1907年6月3日に、必要な手続きを無視して、強引に解散させ(いわゆる「6・3」クーデター)、選挙法を“改正”する一方、スピード裁判の軍事裁判を導入し、革命派を次々に絞首台に送ったため、「ストルイピンのネクタイ」と言われた(死刑宣告されると即日執行というスピードぶり)。
彼は、「まずは平静を、しかる後に改革を」という方針にもとづき、革命状況の沈静化とともに、抜本的な改革に着手する。
個人農創出の失敗と孤立化、そして暗殺
第一次革命の衝撃は、それまで極めて保守的で“革命の防波堤”とみられていた農民層が過激化し、国会でも、彼らが支持する社会革命党(エスエル)などが大勢力となったことで、これはイギリスなどの諸外国をも驚かせた。
ストルイピンは、今や革命の温床となった農村共同体(ミール)を解体して、プロイセン的な独立した個人農を創出し、近代化の基盤にしようと考えた。さらに、地方自治の近代化と強化、ユダヤ人の権利拡大、言論、出版、結社、集会の自由の拡大など、広範な改革を構想していたが、一方で、共同体離脱など思いもよらなかった農民の反対に遭い、他方でツァーリや右派の支持を得られず、孤立していく。
個人農創出についていえば、実際に共同体を離脱して独立したのは、結局、全体の10~20%にすぎず、それも、土地を売却するために“独立”した貧農が約半数を占めた。
1911年9月14日、ストルイピンはキエフで観劇中に、ニコライ2世の目の前で、無政府主義者で警察のスパイだったドミトリー・ポグロフによって銃撃され、4日後に亡くなった。
ストルイピン改革の評価はいまだに定まっていないが、帝政時代最後の本格的な改革者であったことはまちがいない。
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