レオン・バクスト:『牧神の午後』(1912)の ニジンスキー |
ウラル地方のペルミで貴族の家庭に生まれ、1890年にペテルブルク大学法学部に入学するが、芸術家を目指していたため、法律はそっちのけで、声楽、作曲の勉強やマリインスキーなどの劇場通いに熱心だった。この頃、のちの舞台美術家アレクサンドル・ベノワ、レオン・バクストなどと出会っている。
使命に目覚める
大学卒業後、98年にベノワ、バクストらと美術雑誌「芸術世界」を創刊し、西欧とロシアの新しい芸術や安藤広重、葛飾北斎などを紹介した。
やがて、ロシア芸術を西欧に紹介することを志すようになり、パリで1906年に絵画の展覧会、1907年にコンサートを開き、いずれも成功を収める。
コンサートは、パリ・オペラ座で行われ、ラフマニノフ、リムスキー=コルサコフ、スクリャービン、グラズノフらの自作自演、名指揮者アルトゥール・ニキシュによるチャイコフスキーの演奏、フョードル・シャリアピンによる『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアなど。
翌1908年には、シャリアピンの主役によるムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』全曲上演をパリ・オペラ座で行い、大成功した。
バレエ・リュス旗揚げ公演
1909年には、シャトレ座で、バレエ・リュスの旗揚げ公演である「セゾン・リュス(ロシア・シーズン)」が行われた。演目は、『アルミードの館』、オペラ『イーゴリ公』より「韃靼人の踊り」、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などで、ダンサーは、アンナ・パヴロワやヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナなど、最高の若手をそろえ、大成功。
このときディアギレフは、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』、ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲を依頼している。
翌1910年、オペラ座で『火の鳥』、バレエ用に改編したリムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』などを上演した。ブノワ、バクストらも舞台美術で協力し、バレエ・リュス独自の総合芸術を創り上げていく。
1911年に、常設のバレエ団「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)を結成。
20世紀初めの欧州文化の粋
以後も、ディアギレフの委嘱で音楽史を飾る名曲が続々と生まれていく。とくにストラヴィンスキーは、『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)、『春の祭典』(1913)、『プルチネルラ』(1920)、『結婚』(1923)などの代表作を作曲。
ロシアの作曲家ではほかにプロコフィエフが目立ち、『道化師』(1920)、『鋼鉄の歩み』(1925)などを書いている。
フランスの作曲家では、ラヴェルが『ダフニスとクロエ』(1912)、ドビュッシーが『遊戯』(1913)、サティが『パラード』(1917)、プーランクが『牝鹿』(1923)など。イタリアのレスピーギも『風変わりな店』(1918)を作曲。
舞台美術も、ピカソ、マティス、ローランサン、ミロなど、当代一流の芸術家が担当した。振付も、ミハイル・フォーキン、ニジンスキー、レオニード・マシーン、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ニジンスキーの妹)、ジョージ・バランシンらが振付けを行った。
因縁の死?
ディアギレフは、1929年のシーズン後、持病の糖尿病で、旅先のヴェネツィアで亡くなる。
彼は迷信深いところがあり、パリの占い師に「水辺で死ぬ」と予言されたために、船旅を怖がっていたが、実際に「水の都」ヴェネツィアで死んだ。
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