大粛清の組織者ベリヤ生まれる

ラヴレンチー・ベリヤ

ラヴレンチー・ベリヤ

1899年の今日、3月29日(ユリウス暦3月17日)に、スターリン時代の大粛清の組織者の一人であるラヴレンチー・ベリヤ(~1953)が生まれた。

 グルジアのアブハジア自治共和国の首都スフミ近郊で、小作農の子として生まれる。スフミの工業学校で学び、とくに数学が得意だった。1917年3月に、ボリシェヴィキに入党。

 

 スターリンの側近として 

 1920年代には、アゼルバイジャン、グルジアで秘密警察チェーカー(のちのGPU)で、反革命勢力の弾圧に辣腕をふるう。26年に同じグルジア出身のスターリンの知遇を得る。1931年にグルジア共産党第一書記、34年には党中央委員となる。

 大粛清の“最盛期”の38年には、ニコライ・エジョフに代わり、内務人民委員に就任。エジョフは40年にベリヤの部下の手で銃殺される。

 

 逮捕し、労働力に組織 

 41年には人民委員会議副議長(副首相)となり、独ソ戦中は、武器、航空機の生産を担当し、数百万におよぶ強制収容所の囚人をそのために組織した。44年12月からは原子爆弾開発も担当し、49年には開発に成功する。

 ベリヤは、その絶大な警察権限により、厖大な労働力を、学者から肉体労働者まで“確保”し、強制収容所で組織することで、独ソ戦の勝利に“貢献”した。

 その一方で、国内の取り締まり、スパイの摘発、少数民族の強制移住を遂行した。「カティンの森事件」にも直接関与している。ソ連崩壊後、92年にロシア政府は、ポーランド人射殺の命令書(スターリン、ベリヤなどの署名入り)を公開した。

 

 スターリンを暗殺? 

 戦後もベリヤは副首相職にあったが、内務人民委員には、彼の人脈ではないセルゲイ・クルグロフが就任し、彼の警察権力は、幹部を入れ替えられて、骨抜きにされていく。

 53年3月1日に、スターリンは、フルシチョフ、マレンコフ、ブルガーニン、ベリヤとの夕食時に倒れ、3月5日に死亡したが、これがベリヤの暗殺だという状況証拠、未確認情報が複数ある。

 モロトフの回顧録では、ベリヤはモロトフに対し、スターリンに毒を盛ったと言ったという。スターリンが意識不明の状態で発見されてから数時間、医師に治療させなかったとか、行われた治療が逆効果になり、病状を悪化させるものだったとか、ロシア公文書館に保存されていた医師のカルテが青鉛筆で訂正されていたとかいった話もある。ベリヤは通常青鉛筆を使っていたという。

 

 逮捕、処刑 

 スターリンの死後、ベリヤは第1副首相となり、また警察のトップにも返り咲いて、マレンコフとともに、ソ連の最高実力者となった。ベリヤは一定の自由化政策を打ち出すが、彼自身にはこれが仇となって、53年6月、東ベルリンで民主化デモが起きる。これをきっかけに、フルシチョフが中心となり、ソ連にとって「危険な」政策を展開するベリヤを失脚させる陰謀が練られる。まもなくベリヤは、逮捕、処刑された。