ミハイル・ゴルバチョフ氏=ヴラディーミル・ヴャツキン撮影/ロシア通信
左右両派と国民の不満のはざまで
ゴルバチョフは西側では人気があったが、国内的には、次第に、改革派と保守派のあいだでバランスをとるのがむずかしくなり、国民もまた、経済難による物不足などから、政権への不満をつのらせていった。
ゴルバチョフは、モスクワでの30万人デモの直後の90年3月に、複数政党制と大統領制を導入して、3月15日大統領に選出されたが、権力基盤は弱まっていった。
権力基盤は弱まる
ゴルバチョフは、副大統領にはシェワルナゼを据えるつもりだったが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と保守派の脅威を訴えて、1990年12月に外務大臣を辞任してしまう。
ゴルバチョフはやむをえず、保守派のゲンナジー・ヤナーエフを副大統領に指名したが、その彼が、他の保守派とともに、91年8月に、ゴルバチョフを軟禁し、クーデターを起こすことになる。
エリツィンの台頭
一方、ボリス・エリツィンはこの間、90年5月にロシア共和国最高会議議長に就任し、7月には共産党を離党。91年6月には、60%近い得票率で、ロシア共和国大統領に就任した。
1991年12月8日のベロヴェーシ合意による連邦崩壊まで、あと1年半を残すのみだった。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。