セルゲイ・プロコフィエフ、1918年。
輝かしい出発
ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアンなどとともにソ連時代を代表する作曲家セルゲイ・プロコフィエフは、1891年に富裕な農業技師の一人息子として生まれ、幼児から異常な楽才を発揮した。1904年には、13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学し、作曲とピアノを学んだ。
14年に自作のピアノ協奏曲第1番を弾いて、ルビンシテイン賞を得て卒業。輝かしいスタートだった。
ロシア革命後の1918年、ソビエト当局の了解のもとで、極東、日本を経て、アメリカ、ヨーロッパに渡った。23年にスペイン人歌手リーナ・ルベラと結婚し、二人の息子が生まれた。
大粛清と家庭の崩壊
36年、家族とともにソ連に帰国したが、当時は、ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がプラウダ紙上で槍玉に挙げられるなど(スターリンみずから執筆したと推測される)、文化人への締め付け、弾圧も厳しさをましていた。
独ソ戦のさなかには、妻リーナが、スパイ容疑を受けて、逮捕され、強制収容所送りとなった。その前後にプロコフィエフは、第二の妻ミーラ・メンデリソンと出会っている。
次第に健康も悪化し、医師から作曲時間も、一日30分に制限されるようになるが、創作意欲は衰えなかった。
53年3月5日午後6時、脳出血で死去。スターリンの死ぬ3時間前のことだった。
プロコフィエフは、7つの交響曲、「炎の天使」、「3つのオレンジへの恋」などのオペラ、「ロミオとジュリエット」、「シンデレラ」などのバレエ音楽など、様々な分野で多くの傑作を残した。
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