ソ連共産党第20回大会開幕、フルシチョフの特別報告の時 =ロシア通信
スターリン批判
1953年3月5日にスターリンが死ぬと、彼に対する批判が始まった。フルシチョフの特別報告「個人崇拝とその結果について」の内容は、①スターリンが、無実の党幹部、市民を粛清したこと、②独ソ戦への備えをおこたり、とくに緒戦で大損害を被ったこと、③個人崇拝を助長したこと――などだった。
波紋
報告がアメリカ国務省によって発表されると、世界に巨大な影響をおよぼし、ポーランド、ハンガリーなどの東欧社会主義諸国では、反ソ暴動の引き金になり、中国では逆に、スターリン擁護の立場が強調され、中ソ間の論争に発展した。
ソ連内部でも、フルシチョフとモロトフ、マレンコフなどとの対立が激化し、後者は、反党グループとして追放されることになる。
1961年10月の第22回党大会では、スターリンの遺体をレーニン廟から撤去する決定がなされた。
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