ヴィソツキーの遺産

=ベンジャミン・ハッター撮影

=ベンジャミン・ハッター撮影

没後30年以上、ウラジーミル・ヴィソツキーは人々を引き付け続けている。ロシアNOWは、彼が生きていれば75歳の誕生日を迎えた日の記念コンサートで、彼の息子と何人かのロシア人アーティストに話を聞いた。彼らは、時代を超越した名声と彼が残した遺産について語ってくれた。

「父は、一番欲しいものは何かと聞かれると、必ず『人々に忘れられないでいたい』と言っていました」。そう語る息子のニキータ・ヴィソツキーさんは、父が離婚して、1969年にフランス人女優マリーナ・ヴラディと再婚したため、父親をあまり知らずに育った。

しかしニキータさんは、文字通り父親の願いを叶えた。生きていれば75歳になったはずの日に、有名なアーティストをモスクワ最大級のホールに呼び寄せ、ヴィソツキーの芸術を思い出し、歌い、復活させた。

一曲一曲がドラマ」 

彼は、その歌に込めた激しい体制批判ゆえに、合法的にレコードを作ることができなかった。だが、彼の歌はカセットのコピーで、全国に広まった。それどころか、「ポスターやリーフレットなしでも、いつ、どこで、彼の次の地下コンサートが行われるか、誰もが知っていました」。映画「ヴィソツキー:生きていてくれてありがとう」(2011年)で主役を演じた俳優セルゲイ・ベズルーコフはこう説明する。彼のまさに生き写しのメイクは大きな話題を呼んだ。

バンド「チャイフ」のリーダーのウラジーミル・シャフリンさんは、密かに作られたカセットでヴィソツキーを発見したのではなかった。彼の父親は彼にギターを教えるためにヴィソツキーの歌を利用した。シャフリンさんは今年54才になり、彼のバンドが演奏する時には、コンサート会場が埋まる。

プロフィール

ウラジーミル・ヴィソツキーは、1938年1月25日にモスクワで生まれた。1月25日は聖タチアナの日で、「ロシア学生の日」でもある。 1955年に、彼はモスクワ国立建築大学に入学したが、モスクワ芸術座演劇学校に出席するために中退した。1960年代初頭、彼は後にソ連の全ての窓から聞こえてくることになる歌を何曲か録音した。 1964年にヴィソツキーは、世界的な演出家ユーリー・リュビーモフ率いるタガンカ劇場に入団し、死ぬまで在籍していた。とくにハムレットの名演は今も語り草だ。 ヴィソツキーは、1980年7月25日、モスクワ五輪開催中に、睡眠中に亡くなった。死因は、アルコール依存症やモルヒネ中毒による心臓発作とされている。

「彼の曲はそれぞれがひとつのドラマのようなものです。何度も何度も読み返すことができる戯曲のようです。毎回、新しい感情、新しい意味を見つけることができます」と彼は説明する。

ロシア初のロック・ミュージシャン 

若い頃、シャフリンさんは、ウラルのエカテリンブルク市の新しい地区の建設に携わった。動機は、建設が終わり次第、新しいマンションの一室に住めるから。

「友人とともに我々は、この道をヴィソツキー通りと名付けようと主張し、我々の主張は見事に通りました。私は、国内パスポートにこの住所が書かれているのがとても誇りでした」と彼は微笑む。「ヨーロッパではビートルズマニアがいました。我々は当時、ビートルズを知らなかったけど、ヴィソツキーがいた」。

生ける伝説 

ヴィソツキーが遺したものはあまりにも奥深く、彼を超える者は今後出てこないだろうと言われる。「ロシアの歌には大きなギャップがあります。人々は、ヴィソツキーが大昔に大声で叫んだことをもう一度言うべく、時間を無駄にしています」。そう語るのは、モスクワの「音楽と詩の劇場」の創設者で歌手のエレーナ・カンブロワさん。彼女のレパートリーには、ヴィソツキーと、彼女がヴィソツキーの“精神的な兄弟”と見なすジャック・ブレルの曲が含まれている。

観客も、この生けるレガシーに魅了されている。ヴィソツキーと同年代の人々の白髪頭は、ファンのなかでも、片手で数えられる程度だ。この記念コンサートに集まったモスクワっ子は、ヴィソツキーに、彼が生前最も手に入れたかったこと、すなわち、不死を捧げた。