画家ワシーリー・スリコフ生まれる

1848年の今日、1月24日(ユリウス暦1月12日)に、画家ワシーリー・スリコフ(~1916)が、東シベリア・クラスノヤルスクのコサックの家庭に生まれた。彼は、絵画のナロードニキともいうべき移動展派に属し、歴史的事件や民衆の生活を、独自の目線から圧倒的に力強く描き出した。

自画像

サンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーで学んだ後、77年にモスクワに移り、当時建築中だった救世主大聖堂のフレスコ画4点の制作を依頼された。

78年には、デカブリストの孫娘にあたるエリザヴェータ・シャレーと結婚する。同年、代表作の一つ、「銃兵隊処刑の朝」を描きはじめ、81年に完成した。同年、移動展派の会員となる。

最大の代表作は、トレチャコフ美術館の絵画のなかでもひときわ目立つ大作「大貴族モロゾワ夫人」(1884~1887)だろう。モロゾワ夫人は、実在の人物で、17世紀の上からの宗教改革に反抗したいわゆる分離派の指導者であった。

ちなみに、映画監督ニキータ・ミハルコフとアンドレイ・コンチャロフスキーは、スリコフの曾孫にあたる。

絵画のナロードニキ 

移動展派は、美術アカデミーの題材、テーマ、手法などの面での束縛に抗議した画家の集団で、「忘れえぬひと」などで日本でも知られるイワン・クラムスコイが指導した。彼らは民衆の生活を多面的に描き、反権力的な志向をもっていた。70年からはロシア各地を巡回して美術展を開き、美術に接する機会の乏しかった地方の民衆の啓蒙に努めた。その意味で、絵画におけるナロードニキ(人民主義者)であったといえる。

ゲー、ペローフ、レーピン、サヴラーソフ、シーシキン、ヴァスネツォフ兄弟、クインジ、ポレーノフ、ヤロシェンコ、レヴィターン、セローフ等々、19世紀後半の名だたる画家の大半がこの派に属しているといっても過言ではない。

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