コンスタンチン・スタニスラフスキー、1912年。
ネミロヴィチ=ダンチェンコとモスクワ芸術座を創設
生家はモスクワの富裕な実業家で、トレチャコフ家、マモントフ家とも姻戚だった。彼の才能は祖母譲りかもしれない。彼女はフランス人でパリの有名な女優だった。スタニスラフスキーは、1877年、14歳のときに家庭劇団をつくっている。
88年に芸文協会を設立、97年には演劇人ウラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコ(1858~1943)と出会い、翌年、モスクワ芸術座を創設し、チェーホフの戯曲をはじめ、ロシア革命をはさんで内外の古典、新作を約100篇上演し、世界の演劇の一中心に成長させた。
スタニスラフスキー・システムを編み出す
そのかたわら、スタニスラフスキーは、スタニスラフスキー・システムと呼ばれる、演技を創造する方法を編み出し、世界に多大な影響を与えた。このシステムの本質は、俳優は「役を生きなければならない」ということである。例えば、酔って舞台に登場する場合には、どこでだれと飲ん で、どんな気分だったのか、なぜ飲みに行ったのかなどを想像する。
「舞台は現実であり、小さな役、端役は存在しない。なぜなら、この世ではすべての人が価値ある存在だからだ」。
著書に自伝『芸術におけるわが生涯』(1926年)、『俳優修業』全3巻(1938~48年)などがある。『俳優修業』は邦訳が出ている(『俳優の仕事』、未来社)。
作家ミハイル・ブルガーコフの長編『劇場』では、晩年のスタニスラフスキーの裏面が実に印象的に描かれている。
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