この戦争で、兵力で劣勢のロシア軍は当初より、かなり組織的な焦土戦術をとり、後退をつづけた。
フランス軍は、往路から餓えと乾きに苦しめられ、またロシアの悪路のために補給も思うにまかせず、はじめは約50万もいた「大陸軍」は、ボロジノで露仏両軍が、激突するまでには十数万に激減していた。
予め大筋で決まっていたモスクワ放棄と放火
露軍はボロジノの会戦で善戦したが、予備の部隊も使い果たして、モスクワまで後退をよぎなくされた。
ロシアの各種文献、資料をみると、政府首脳には当初から、戦争の展開次第では、モスクワを放棄し、大きな補給基地に近いカルーガ街道方面に撤退する構想があったようだが、それが実行されることになった。
なお、モスクワを放棄する場合に、火を放つことは、戦術上の論理からいって当然であり、はじめから政府上層部によって決定されていたと思われる。これは、複数の資料によって裏付けられる。
例えば、総司令官クトゥーゾフの副官であったミハイロフスキー=ダニレフスキーは、自分が書いた祖国戦争史のなかで、軍が放火に関与したことを認めているし、セルゲイ・グリンカはその手記で、自分がツァーリに委任されて、モスクワ総督ロストプチンと協力して、組織的に放火したことを仄めかしている。
クレムリンでのナポレオン爆殺をねらう
消火機材もあらかじめ破壊されるか、ウラジーミル方面に運び出されたため、消火はほとんど不可能で、置き去りにされた露軍の負傷した将兵2万あまりも、その大半が焼け死ぬことになった。
ロシアの歴史家エフゲニー・タルレは、この焦土作戦と一石二鳥で、ナポレオン爆殺をねらったとみている。出火場所がクレムリンに近く、しかもここには、露軍がわざとのように大量の弾薬を置いていったからだ。
事実、ナポレオンは、馬事総監コランクール(のちの外相)、副官セギュールらが生々しく回想しているように、火の海のなかを命からがら間一髪で脱出することになる。
戦わずして形勢逆転
この凄惨きわまる焦土作戦は、仏側にとってまったく予想の外であった。
大火でモスクワの4分の3が焼け、食糧も宿営地もかなり失われてしまったのに、ナポレオンは、なお一月以上もモスクワに腰をすえ、和平交渉にアレクサンドルが乗ってくるのを当てにしつつ、冬支度もろくにしないまま、いたずらに時間を空費した。
一方のクトゥーゾフ率いる露軍は、補充を受けて急速に勢力を盛り返し、力関係は逆転した。
ナポレオンが、10月19日(ユリウス暦)にモスクワを出たときは、冬将軍の到来は間近で、すでに彼の運命は決していたといえる。クトゥーゾフとしては、仏軍にぴったり追走しつつ、時間を稼げばよかった。
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