祖国戦争の勝利宣言

1813年の今日、1月6日に、皇帝アレクサンドル1世が、前年6月のナポレオンのロシア侵入にはじまる祖国戦争での勝利を宣言した。このきわめてユニークな戦争をロシア側からかんたんに振り返ってみたい。

この戦争で、兵力で劣勢のロシア軍は当初より、かなり組織的な焦土戦術をとり、後退をつづけた。

フランス軍は、往路から餓えと乾きに苦しめられ、またロシアの悪路のために補給も思うにまかせず、はじめは約50万もいた「大陸軍」は、ボロジノで露仏両軍が、激突するまでには十数万に激減していた。

予め大筋で決まっていたモスクワ放棄と放火 

露軍はボロジノの会戦で善戦したが、予備の部隊も使い果たして、モスクワまで後退をよぎなくされた。

ロシアの各種文献、資料をみると、政府首脳には当初から、戦争の展開次第では、モスクワを放棄し、大きな補給基地に近いカルーガ街道方面に撤退する構想があったようだが、それが実行されることになった。

なお、モスクワを放棄する場合に、火を放つことは、戦術上の論理からいって当然であり、はじめから政府上層部によって決定されていたと思われる。これは、複数の資料によって裏付けられる。  

例えば、総司令官クトゥーゾフの副官であったミハイロフスキー=ダニレフスキーは、自分が書いた祖国戦争史のなかで、軍が放火に関与したことを認めているし、セルゲイ・グリンカはその手記で、自分がツァーリに委任されて、モスクワ総督ロストプチンと協力して、組織的に放火したことを仄めかしている。

クレムリンでのナポレオン爆殺をねらう 

消火機材もあらかじめ破壊されるか、ウラジーミル方面に運び出されたため、消火はほとんど不可能で、置き去りにされた露軍の負傷した将兵2万あまりも、その大半が焼け死ぬことになった。

ロシアの歴史家エフゲニー・タルレは、この焦土作戦と一石二鳥で、ナポレオン爆殺をねらったとみている。出火場所がクレムリンに近く、しかもここには、露軍がわざとのように大量の弾薬を置いていったからだ。

事実、ナポレオンは、馬事総監コランクール(のちの外相)、副官セギュールらが生々しく回想しているように、火の海のなかを命からがら間一髪で脱出することになる。

戦わずして形勢逆転 

この凄惨きわまる焦土作戦は、仏側にとってまったく予想の外であった。

大火でモスクワの4分の3が焼け、食糧も宿営地もかなり失われてしまったのに、ナポレオンは、なお一月以上もモスクワに腰をすえ、和平交渉にアレクサンドルが乗ってくるのを当てにしつつ、冬支度もろくにしないまま、いたずらに時間を空費した。

一方のクトゥーゾフ率いる露軍は、補充を受けて急速に勢力を盛り返し、力関係は逆転した。

ナポレオンが、10月19日(ユリウス暦)にモスクワを出たときは、冬将軍の到来は間近で、すでに彼の運命は決していたといえる。クトゥーゾフとしては、仏軍にぴったり追走しつつ、時間を稼げばよかった。