ペトラシェフスキー事件で“狂言処刑”

懲役場、19世紀

懲役場、19世紀

1850年の今日、1月3日に(ユリウス暦では1849年12月22日)に、ペトラシェフスキー事件に連座し死刑判決を受けた、作家ドストエフスキーら21人が、予め皇帝ニコライ2世が仕組んだシナリオどおり、執行直前で流刑に減刑された。ドストエフスキーは、この“狂言処刑”を名作『白痴』で生々しく描いている。

いわゆるペトラシェフスキー・サークルを主宰し、主犯となったミハイル・ペトラシェフスキーは、ドストエフスキーと同年の1821年に貴族の家庭に生まれ、外務省の翻訳官として勤めていた。社会主義に関心をもち、当時は禁書だったサン・シモン、フーリエなどの著作を所有し、45年秋からサークル「金曜会」を主宰していた。

その内部に急進的な小グループが生まれ、農民蜂起や秘密文書の印刷、配布をもくろむようになり、ドストエフスキーも直接これに関与していた。

しかし、494月に、密告により、サークル員は逮捕され、取調べを受ける。この時期、当局の締め付けが厳しくなったのは、欧州全体で革命運動が活発化していたためである。
 

実は過激派だったドストエフスキー

ドストエフスキーも、ペトロパブロフスク要塞監獄に拘留され、尋問をうける。ドストエフスキーが逮捕されると、彼が管理していた印刷機を、仲間たちがすばやく隠した。このあたりの経緯は、『悪霊』の状況とシャートフの役回りをほうふつとさせる。

審理の結果、ペトラシェフスキー、ドストエフスキーを含む21名に銃殺刑の判決が下された。

185013日、21名は、刑場となったセミョーノフスキー練兵場へと連行され、まずドストエフスキーを含む3人が、柱に縛り付けられた。銃口が向けられたところで、減刑の勅令が読み上げられるという、残酷で手の込んだ狂言だった。

秘密と恐怖とともに生きる

ドストエフスキーの罪状は、文芸批評家ベリンスキーの作家ゴーゴリあての手紙を朗読したという、今日からみれば、取るに足らないものだった。

印刷機については、ドストエフスキーは、20世紀後半に公表された尋問調書によると、したたかに白を切りとおしたのである。

もし、印刷機の件が露見していれば、処刑はとうてい狂言ではすまなかったろう。ドストエフスキーは、この秘密と暴露の恐怖を抱えて、生きていくことになる。