皇帝ニコライ二世夫妻は、皇太子アレクセイの血友病をラスプーチンに治療してもらって以来、その強力な影響下にあり、とくに皇后アレクサンドラはこの“怪僧”と愛人関係にあって、敵国ドイツと通じて単独講和を図っている、とのうわさが広まっていた。その真偽は、今日にいたるまで明らかでないが、皇帝一家の権威が地に落ちたことは確かだ。
ユスポフは、親友で“愛人”であったといわれるドミートリー・パーヴロヴィチ大公と共謀し、自邸でラスプーチンを暗殺した。ロシア革命後、ユスポフはパリに亡命し、自分がラスプーチンを殺した経緯を事細かく回想に書いている。
回想によると、ユスポフは、自分の美貌の妻イリーナと会わせることを口実に、ラスプーチンを自邸におびき寄せて、青酸カリ入りのナッツケーキを食べさせ、銃弾を数発撃ち込んだ。不死身のラスプーチンは、それでも逃げ回り、柵を飛び越えたが、最後につかまり、凍りついたネヴァ川の川面に穴を開けて投げ込まれ、溺死した―。
いくら怪僧でも出来すぎのようだ。作家エドワード・ラジンスキーは、新資料と緻密な考証にもとづき、異説を発表している(「真説ラスプーチン」沼野充義、望月哲男訳)。
暗殺者の回想と異説
遺体は、橋についていた血の跡で、すぐに発見され、潜水夫が氷の下から引き上げた。防腐処置を施された遺体は、ツァールスコエ・セローのセラフィム・サロフスキー教会と同じ敷地内にある、閉鎖されたアレクサンドロフスキー公園に密かに埋葬されたが、1年後には革命兵士がそれを見つけ、最後には技術大学の蒸気ボイラーで火葬され、遺灰がまかれた。
予言の的中?
死ぬ前にラスプーチンは、ニコライ2世に謁見し、次のような予言めいた言葉を残している。
「私は殺されます。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であるなら、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者のなかに陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げることとなりましょう。そしてロシアは、長きにわたって多くの血が流されるでしょう」。
その言葉通り、ロシア革命、内戦、テロで多くの血が流されたのち、ソビエト社会主義連邦が誕生した。その樹立が宣言された日は、奇しくも、ラスプーチン暗殺と同じ12月30日だった。
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