ブレジネフの誕生日

レオニード・ブレジネフ=Kohls Ulrich撮影

レオニード・ブレジネフ=Kohls Ulrich撮影

1906年12月19日(ユリウス暦)、レオニード・ブレジネフ(~1982)が、ウクライナのカメンスコエ(現ドニエプロジェルジンスク市)で生まれた。

レオニードの父イリヤは、金属工場の労働者だった。1921年、家族はクルスクに移転し、彼は15歳から同市の製鉄所で働いた。1923年に、共産党の青年組織であるコムソモールに入り、31年に共産党入党。35年にドニエプロジェルジンスク冶金大学を卒業した。

独ソ戦中は、南部戦線で軍の政治委員を務め、1950年にモルダビア共産党中央委員会第一書記に就任する。ニキータ・フルシチョフの側近となり、スターリン死後の権力闘争では、フルシチョフを支持。

やがて、フルシチョフの指導力が弱まると、追放計画に加担し、第1書記に就任する(首相はコスイギン)。

「停滞の時代」 

ブレジネフは、1964年のフルシチョフ失脚から1982年に死去するまで、20年近くソ連の最高指導者の地位にあった。この間、KGBの権限をふたたび強化したこともあり(議長はユーリー・アンドロポフ)、内政は安定するが、彼自身をはじめとして、各部門の指導者が長年交代せず、老齢化するにしたがって、体制そのものも硬直化していった。

70年代に米ソ間で、核兵器のバランスをとるようになったことは、彼の功績のひとつだが、農業、経済の改革には成功しなかった。

79年末のアフガニスタン侵攻をきっかけとして、米国のカーター、レーガン政権の軍拡を招き、ソ連経済はさらに悪化し、のちの連邦崩壊の一因となる。

ブレジネフの「停滞の時代」は、82年11月の彼の死とともに終わりを告げる。

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