「モロゾワ夫人」、ワシーリー・スーリコフ作。
17世紀は、欧州で三十年戦争が起こるなど、世界的に、宗教上の変革に列強の勢力争いが絡んで動乱の世紀となった。
ロシアの宗教改革とその大波紋
ロシアも例外ではなく、1653年に、アレクセイ・ミハイロヴィチ帝(1629~1676)のもとでニコン総主教による「宗教改革」が断行された。これはおもに、オスマン帝国支配化の東方教会に、ロシア式の奉神礼(典礼)を合わせたもので、はた目からは形式上の変更にすぎないが、信者にとっては信仰の根幹にかかわる大問題となり、ロシア正教会は、改革派と古儀式派に分裂してし、結局、活力をいちじるしく弱めてしまった。
なぜ、ニコンがこういう改革を強行したのかよくわからないが、しばらくして彼は俗権に対する教権の優位を主張したため、ツァーリの寵を失い、1666~1667年の主教会議で罷免されてしまう。
大貴族モロゾフ家つぶし
さて、件の大貴族モロゾフ家は、古儀式派の牙城であったばかりか、当主のボリス・モロゾフ(1590~1661)は、アレクセイ帝の義兄で、かつてはその教育係を務め、実権を握っていた。5万5千人の農奴を所有する大地主でもあった。
61年にそのボリスが死に、67年にニコンが罷免されると、アレクセイ帝は、古儀式派の精神的支柱であったモロゾワ夫人(ボリスの弟グレープの夫人)の逮捕に踏み切る。
モスクワのトレチヤコフ美術館でひときわ目立つ名画「モロゾワ夫人」はまさに彼女が逮捕され、信者に見送られながら橇で連行されていくさまを描いたものだ(ワシーリー・スーリコフ作)。
彼女の妹も逮捕され、裸で氷の上に寝かせられるなど厳しい拷問を受けて、改革の受け入れを迫られたが、姉妹は屈しなかった。そこで、ふたりは、モスクワ南西80キロのボロフスクの土牢に閉じ込められ、餓死した。
宗教を踏み絵に専制を確立
結局、ニコンの改革を経て、政治的勝者として残ったのは、教権をそぎ、正教会を弱め、大貴族を抑えて、専制を確立したアレクセイ・ミハイロヴィチ帝その人ということになった。彼の政治的成功は、息子ピョートルの改革を準備する。
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