ゾイ・パレオロギナ、頭蓋骨を元に復元された容貌=セルゲイ・ニキチン撮影
外れた教皇の読み
ゾイは、帝国滅亡後、ローマに亡命していたのだが、東西教会の再統一をもくろむローマ教皇パウルス2世から、この結婚をすすめられた。
しかし、イワン3世(1440~1505)は、モンゴル・タタール人によるロシア支配に終止符を打ち、対外的にも領土を拡張して、中央集権化を推し進めた人物。そんな彼にとって、この結婚は、教皇の意に反して、ロシアの権威を高めるのに役立った。
第三のローマへ
ソフィアとロシア名に改めたゾエは、ビザンチン(東ローマ帝国)の儀式、イタリア文化をもちこんだほか、モスクワ公国が東ローマ帝国の継承者を自称する根拠ももたらした。
ビザンチンの国章「双頭の鷲」はロシアに受け継がれ、イワン3世は、初めてツァーリを自称した。
一説によれば、ソフィアは結婚早々、タタール人への貢納を止め、断固対決するよう説得したという。
こうした背景があって、モスクワ府主教のゾシマやプスコフの修道士フィロフェイなどが、「モスクワは第三のローマである」という「第三のローマ」論を打ち出していくことになる。
ソフィアは政治に積極的に介入し、イワン3世の後継をめぐっては、自分が生んだワシーリーを押し、先妻の子イワンの遺児ドミトリーを排除した。
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