「民族統一の日」を祝う

ミニンとポジャルスキーの銅像、モスクワ 写真提供:JackVersloot, flickr.com

ミニンとポジャルスキーの銅像、モスクワ 写真提供:JackVersloot, flickr.com

17世紀初頭の大動乱時代とその終焉は、ロシアの1000年の歴史のなかでも最も重要なできごとのひとつだ。長年の内戦やポーランド介入などの試練を経て、ロシア国家が再生してから400年が経つ。

11月4日の民族統一の日は、1612年にクジマ・ミニンとドミトリー・ポジャルスキーが率いた義勇軍が、内戦とポーランド介入を終わらせ、モスクワをポーランド軍から解放したことを記念し、2005年に国民の祝日として制定された。

民族統一の日をめぐる議論 

以来、この祝日をめぐって議論が止まず、歴史家は、11月4日という日付と歴史の整合性を問題視しているし(モスクワの戦いで外国の干渉軍がクレムリンでポジャルスキーに降伏したのは、1612年11月5日だし、ロシア・ポーランド戦争はこの後も続く)、一部の政治家は、1917年の10月革命記念日として以前祝われていた11月7日の代わりとして、取ってつけたような祝日であることに不満を示している。

このようにゴタゴタしながらも、区切りの年となる2012年には、7回目が祝われる。今年は特別な記念の年となるため、特別なスケールで祝典が催される予定だ。

大動乱:ロシア解体の危機 

1000年以上のロシアの歴史のなかで、統一国家機構が事実上失われた時期がいくつかある。そのうちのひとつとなるのが、17世紀初めで、現在では動乱時代(あるいは、その混乱の凄まじさから大動乱とも)と呼ばれている。

ロシア各地の祝賀行事

ミニンとポジャルスキーの勝利400周年の祝賀の中心となるのは、1612年にモスクワを解放したニジニ・ノヴゴロドだ。

街の中央にあるミニン・ポジャルスキー広場では、義勇軍の中核となった民衆の行進が予定されている。参加者は、ヴォルガ川流域の民族衣装をまとい、騎馬でパレードを行う。また、動乱を描いた芝居も行われ、義勇軍招集がクライマックスとなる。

祝典には、プーチン大統領が列席する予定。モスクワではこの日に合わせて、義勇軍の展示会兼フォーラム「正教のルーシ、民族統一の日に向けて」が催され、1612年にモスクワを解放した義勇軍が捧持していた主な聖物のひとつ、イコン画「カザンの生神女」が展示される。

ツァーリの中央政府が崩壊し、ロシアはいくつかの地方政権に分解し、激しい内戦がくりひろげられた。外国軍の介入もあり、モスクワは占拠された。ロシアで起こっていた大規模な自然災害と飢饉につけこみ、モスクワの中心であるクレムリンには、ポーランド軍が押し寄せ、ロシアの皇帝の座に外国人をつけた(イワン雷帝の死亡した皇子ドミトリーがじつは生きていたという触れこみで、偽ドミトリーと呼ばれる)。

複数のデータによると、1600年から1615年までに、ロシアでは全国民の3分の1が死亡し、国としてのロシアと国民としてのロシア人の未来は危殆に瀕した。

民衆の義勇軍が国を救った 

中央政府が事実上不在となった状況下で、国の運命の責任を負ったのは国民自身だった。1612年、豊かなヴォルガ沿岸の街、ニジニ・ノヴゴロドでは、商人クジマ・ミニンが国民の資金を集め、義勇軍を組織した。経験豊かな司令官、ドミトリー・ポジャルスキー公率いる義勇軍には、あらゆる身分の人間、また異なった民族や宗教の信者らが加わり、中央政府のいかなる関与もなしに、1万人以上を動員し、軍をつくりあげた。

国民軍は1612年秋、数で優勢だったポーランド軍をモスクワの戦いで撃破し、11月4日にクレムリンを占拠していたポーランド軍は降伏を余儀なくされた。敵に対する勝利で、国を再建し、1613年にロマノフ王朝の最初の皇帝ミハイル・ロマノフを選ぶことができた。

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