「ラストエンペラー」ニコライ二世即位

ニコライ2世の家族

ニコライ2世の家族

1894年の今日、11月2日(グレゴリオ暦)、300年ほど続いたロマノフ朝の“ラストエンペラー”、ニコライ二世(1868~1918)が、早世した父帝アレクサンドル三世のあとを継ぎ、即位した。しかし、戴冠式直後に、彼の将来を象徴するかのような大事故が起きている。ホディンカ原での惨劇だ。

ニコライ二世は、フランスのルイ十六世とおなじく、教養もあり、善良で、決して愚かではなく、家庭にあっては良き夫、父だが、帝王としてはどうも…という意見が多い。

たとえば、ロシア史の権威であるエレーヌ・カレール=ダンコースも、その好著「甦るニコライ二世:中断されたロシア近代化の道」(藤原書店、谷口侑訳)で、彼の人間像を深く掘り下げながら、結局、同様の結論に達しているようだ。

ホディンカ原での惨劇 

しかし、問題はおそらくニコライ二世の資質だけではなかった。そのことを、即位早々に示した事件が、1896年5月30日(グレゴリオ暦)のホディンカ原での惨劇だ。

5月26日の戴冠式後、祝賀行事がつづき、ホディンカ原では、30日朝に、一般人に記念品を配ると布告されていた。そこへ50万人以上が押し寄せ、将棋倒しとなり、公式の数字では1360人が死亡、多数が負傷した。

品物を順番に手渡すのではなく、大群衆のなかに投げたことも、押し合いをひどくした。

さらに問題だったのは、ホディンカ原では、犠牲者を取り片付けて、そのまま祝賀行事が続行され、同30日午後には、ニコライ二世も到着して、「ウラー!」と国家演奏となった。その晩には、フランス大使公邸で、皇帝夫妻臨席のもとで舞踏会が開かれ、夫妻も踊った。

この辺の感覚のずれと機能停止状態はかなり不気味だ。目に見えぬところで、国の基盤は根底から崩れつつあった―まだ、だれも気がついてはいなかったが。