アレクセイ・ティホノフ撮影
広大な国土、そして戦乱、政変、革命などが打ち続いた激動の歴史…。人々は、しばしば金や財宝を地中に埋めた。ロシア革命後に亡命したナルイシキン家の秘宝がいい例だ。銀行制度の発達が西欧より遅れていたことも、こうした傾向を助長した。
しかし、実際には、この手の秘宝はもっと頻繁に見つかっているのだが、発見者が口をつぐんでいると考えられる。
これには、国家と発見者との分配方法が関係している。ロシアの法律では、財宝が見つかった場合、土地所有者と発見者が半分ずつ折半する。もし、それが文化財、歴史的遺産としての価値をもつ場合には、半分が国家の所有となり、残り半分を地主と発見者が分け合うことになる。
ところが、評価額の定め方には問題があり、発見者はふつう、実際の価値のごく一部しかもらえない。
とまれ、宝を隠す人々、探し続ける人々は絶えない。目当ては金だけではない。歴史のロマンが宝探したちを引き付ける。彼らはいつの日か、数十年にわたって捜索されてきた秘宝を掘り当てることを夢見ているのだ。
1.「黄金のスーツケース」
Getty Images撮影
しばしば「黄金のスーツケース」と呼ばれるが、実際には黒い色をしている。書類上の名は「特別荷物15号」だ。中には、約70枚のポントス(アナトリア半島北東部)とボスポロス王国の銀貨、ジェノバ、ビザンチン、トルコの貨幣、メダル、黄金の留め金、古代の宝飾品などが納められていた。これらは、紀元3~5世紀の財宝で、ゴート族の墓地で発見され、1926年に、ウクライナのケルチ歴史考古学博物館の所蔵となった。
この財宝が行方不明になったのは、そのわずか15年後のことで、ドイツ軍がクリミアに侵攻したときだ。
ようやく1982年に、歴史学者たちの調べで、財宝を入れたスーツケースが、ロシア南部のクラスノダール地方のコサック村「スポコイナヤ(平穏なの意味)」に運ばれた後、パルチザンの手に落ちたことが分かった。ドイツ軍も財宝のことを知っていたと思われるが、手に入れることはできなかった。
未だに、当地を訪れて宝探しにトライする人はいるが、今のところ成果はない。
財宝:金製、銀製の財宝など計719点。重量は約80キロ。
場所:クラスノダール地方、オトラドネンスキー地区のコサック村「スポコイナヤ」
2.コルチャーク提督の黄金
PhotoXPress撮影
これは、ロシアの宝探したちに最も人気のある秘宝の一つだ。
コルチャーク(海軍大将)は、ロシア革命後の内戦で、1918年11月に白軍が樹立した「全ロシア政府」の「最高執政官」となったが、後に赤軍に敗れて銃殺された人物だ。
シベリアのオムスク市に「全ロシア政府」が樹立されるに際し、カザンからロシア帝国の金準備(延べ棒)の大部分を当地に運んできた。これらは、第一次世界大戦勃発後まもなく、戦火を避けてカザンに移されていた。
当時の国立銀行オムスク支店での調査では、金準備は総額6億5000万ルーブルと見積もられた。ところが、コルチャーク敗北後の1921年に、金がソビエト政権の所有となった際に、再調査してみると、延べ棒の量がかなり減っており、4億ルーブル分しかなかった。
行方不明となった2億5000万ルーブルについては、エストニア出身の兵士カルル・プルロクの証言がある。コルチャーク軍のシベリア連隊に所属していた彼は、東シベリアのケメロボ市に近いタイガ駅まで鉄道で金を運び、穴を掘って埋めたという。
1941年になって内務人民委員部(内務省)が、プルロクをエストニアから呼び出し、現場に立ち合わせてあちこち捜索したが、何も見つけることはできなかった。
財宝:金の延べ棒
場所:シベリアのオムスク州、ケメロボ州、タイガ村
3.大泥棒レンカ・パンテレーエフの盗品
アレクサンドル・ネフスキー修道院の地下、リトアニア・カタコンベ=Getty Images撮影
サンクトペテルブルクの大泥棒レンカ・パンテレーエフが一躍男を上げたのは、1922年に11月に、刑務所「クレストゥイ(十字架の意味)」から史上唯一の脱走をやってのけたときだ。レンカは娑婆に出ると、せっせと稼いで外国に高飛びしようと考えた。
レンカは、わずか2ヶ月で、殺人を含む35件の強盗を敢行し、金銭やネックレス、ブレスレット、イヤリング、指環などかさばらない貴金属を盗んだが、高飛びはならなかった。
1923年2月12日にかけての深夜、レンカを追跡していた警察は、拘束しようとして彼を射殺してしまった。その結果、レンカが盗みためた財宝は、地下に人知れず眠り続けることとなった。
少なくとも、サンクトペテルブルクの地下探索者たちはそう信じ、今日にいたるまで同市の多くの地下通路を探し回っている。彼らは時々、武器、自在合い鍵など、泥棒の隠匿品に行き当たることはあるものの、肝心の“グランプリ”はゲットできないでいる。
財宝:金貨、貴金属など
場所:サンクトペテルブルク市。アレクサンドル・ネフスキー修道院の地下、リトアニア・カタコンベ(地下の墓所)など、同市の地下。
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4.汽船「ワリャーギン号」の黄金
ウラジオストク市ウスリー湾=AP撮影
1906年10月7日、ウラジオストク市のウスリー湾で、商人アレクセイ・ワリャーギンが所有していた貨客船「ワリャーギン号」(オフチニンニコフ船長)が遭難した。瞬時に沈んだため、救出できたのは船長を含む15人だけだった。
事故後、ワリャーギンの代理人が、「特別な状況を考慮して」、地元の総督に積荷の補償を求めた。積荷は、ワリャーギンの申し立てによれば、金貨で6万ルーブルと、「特別な価値をもつ積荷」だった。
総督は拒否したが、1913年には、沈んだワリャーギン号のオフチンニコフ船長が、船の引き上げを試みた。船の位置は確定できたが、引き上げにはより多くの労力と資金が必要なことが分かった。
再度の引き上げ作業は時化で延期され、その後は、第一次大戦と革命が起こったため、今日にいたるまで引き上げ作業は行われていない。
財宝:金貨と「特別な価値をもつ積荷」
場所:ウラジオストク市ウスリー湾。船は、水路「三つ岩」、ワルグリ山、スホドール湾の間に沈んでいる。
5.モスクワ総督ロストプチンの財宝
サナトリウム「ヴォーロノヴォ」(モスクワ環状線から旧カルーガ街道を37キロ南下)=ロシア通信撮影
1812年の祖国戦争に際して、モスクワ総督だったフョードル・ロストプチン伯爵の屋敷は、モスクワ環状線から旧カルーガ街道を37キロ南下した地点のヴォーロノヴォ村にあった。当時「小ベルサイユ」とあだ名された豪邸で、欧州各地から大理石の彫像、古代の壷など、さまざまな美術品が集められていた。
ロストプチンは、ロシア軍がモスクワを放棄するに際して、首都への放火を組織した人物だが、自分のこの屋敷も、自ら財宝ごと焼いている。ところが、同時代人の証言によると、この屋敷での彼の行動は、首都放棄の数日前から奇妙だったという。
ロストプチンは客好きで知られたが、ロシア軍司令部が屋敷のすぐ近くにあったにもかかわらず、そこから誰も招待しようとしなかった。厖大な貴重品があったのに、農民や召使を使って運び出そうとしなかった。また、屋敷への放火は人任せにせず、自分でやった。さらに、燃えるはずのないものまで―例えば、大理石の彫刻などまで―きれいさっぱり消えてなくなった。
事情が推察できたのはようやく1983年のことだ。屋敷の修復中に、敷地内に長い地下道が見つかったのである。高さは2メートル強あった。だが、天井が脆かったため、奥に入ることはできず、結局、「事故防止のため」、地下通路は土で埋められてしまった。以来、本格的な調査はなされていない。
財宝:陶器、銀器、ブロンズ製品、絵画、ゴブラン織(タペストリー)など
場所:サナトリウム「ヴォーロノヴォ」(モスクワ環状線から旧カルーガ街道を37キロ南下)
6.ナポレオンのロシア遠征の置き土産
エフゲーニイ・コサック
1812年10月、ナポレオンは、占領していたモスクワに少数の部隊を残し、旧カルーガ街道への“進軍”を開始した。事実上の撤退の始まりだ。カルーガ街道沿いは、まだ戦闘や焦土作戦で荒らされておらず、補給物資が豊かだったが、露軍に阻止されてしまった。結局、仏軍は、荒れ果てた死体だらけの旧スモレンスク街道を通っての退却をよぎなくされた。
ナポレオンには2種類の“戦利品”があった。黄金と鉄のそれだ。前者は、クレムリンの財宝であり、後者は古い武器のコレクションだ。しかし、兵士も馬もどんどん倒れ、やがて冬将軍が到来して、戦利品どころではなくなった。ついに放棄を強いられたが、未だにその場所は確定できていない。
ロシアの宝探しハンターたちは、スモレンスク州西部の湖の一つに沈められたと考え、これまでに何度も調査してきている。
1960年代初めには、コムソモール(共産党の青年組織)のチームが調べたが、成果はなかった。現在、いちばん頻繁に調査されるのは、セムリョーフスコエ湖だ。理由は、数年前に地球物理学者が測定したところ、湖の金と銀の含有量が通常値よりも高かったためだ。
財宝:古い武器、クレムリンのイワン大帝の鐘楼から取った金メッキした十字架、銀製のシャンデリア、燭台、ダイヤモンド、金の延べ棒、金貨など
場所:スモレンスク州、セムリョーヴォ村、セムリョーフスコエ湖
7.イワン雷帝の蔵書
アレクサンドロフ=Lori/Legion Media撮影
世界の多くのハンターはいまだに、イワン4世(雷帝)の蔵書の行方に頭を悩ませている。伝説によれば、それらの稀覯本は、ビザンチン(東ローマ帝国)の歴代皇帝が数世紀にわたって収集したもので、1453年の帝国滅亡後は、いったんローマに移されてから、モスクワ公国のイワン3世に渡った。ツァーリが、帝国最後の皇帝の姪ソフィア・パレオローグと結婚した際に、彼女が持参金としてもってきたという。
歴史学者の推定によると、蔵書は約800巻あり、古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』、古代ローマの詩人ヴェルギリウスの『アエネーイス』、アリストファーネスの喜劇などが含まれていた。バチカンの記録によると、1601年に、その探索にポーランド・リトアニア共和国の政治家レフ・サピェハ(当時はリトアニア大法官)も関わっている。
その所在地については60以上もの説があるが、最も可能性が高いのは、雷帝の離宮があった、ロシア北部のヴォログダ市の地下、やはり離宮があったモスクワ郊外のアレクサンドロフ、そしてモスクワのクレムリンと同市南部のコローメンスコエの離宮だ。
財宝:ビザンチン時代の稀覯本
場所:モスクワ、ヴォログダ、アレクサンドロフ
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8.ステンカ・ラージンの黄金
ステンカ・ラージン
ロシア民謡で名高い、ドン・コサックの首領ステンカ・ラージン(1630~1671)の反乱は、ピョートル1世時代以前のロシアでは最大で、一時はサラトフ、サマーラも陥落させ、文字通り国を揺るがせた。
彼は捕らえられる少し前に、金と銀をうず高く積んだ平底川舟をクルガン(青銅器時代の墳墓)に埋め、目印に自らネコヤナギを植えた。
やがて、ラージンは捕縛されるが、厳しい拷問を受けても、口を割らず、「ネコヤナギの秘宝」の隠し場所は分からずじまいとなった。ラージンは四つ裂きの刑に処せられた。
以来、地元住民も外来者も、多くのネコヤナギを引き抜き、クルガンを掘り返してきたが、秘宝は未だに見つからない。
財宝:17世紀の金貨と銀貨
場所:ヴォルゴグラード州ゴロジシチェンスキー地区のペスコヴァトカ村
9.ロマノフ家の財宝
タス通信撮影
ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ2世は、1917年の2月革命で退位したあとも、当時最大の財産家だった。
彼は、シベリアのトボリスクに流されたとき、家宝を持参することが許されたが、同地で早くも悲劇を予感したのか(翌18年7月、エカテリンブルクで皇后と5人の子供とともに銃殺される)、家宝を3つに分け、忠実な人間に託している。家族と滞留していたトボリスクの知事の邸宅から、家宝を持ち出させ、隠させた。
のちに、チェーカー(ソビエト政権の秘密警察)は、隠し場所を調べ出し、3つのうち2つまでは発見した。それは計197点の財宝で、当時の価格で300万ルーブル相当あった。これらはやがて、外国から食糧を購入するのに当てられる。
だが、3つ目の宝は、今日にいたるまで見つかっていない。未確認情報によれば、それには、アレクサンドラ皇后の宝石箱、家宝の黄金作りのサーベルと短剣などが含まれており、警護隊長コブイリンスキーがオムスク市の住民であるコンスタンチン・ペチャコスに託した。ぺチャコスは、宝をオムスクに運んだという。
やがて、チェーカーはこの情報も嗅ぎつけた。ぺチャコスは妻とともに拘束され、尋問されたが、厳しい拷問を受けても、ついに隠し場所を漏らさなかった。
ペチャコスは、宝を隠したこと自体は否定しなかったが、警護隊長への約束は皇帝への約束に等しく、破ることはできないと言った。
ペチャコスの家は、地下室から屋根裏まで何度も徹底的に捜索されたが、何も見つからなかった。
財宝:アレクサンドラ皇后の宝石箱、ロマノフ家の家宝の黄金作りのサーベルと短剣
場所:コンスタンチン・ペチャコスの家(西シベリアのオムスク市)
10.プガチョフの王冠
トレジャーハンターのウォルター・フリッツはダイヤモンドをちりばめた金の王冠を探す。=Getty Images/Fotobank撮影
18世紀後半のエカテリーナ2世時代に起きた「プガチョフの乱」は、ロシア史上最大の農民の反乱で、コサック、農民らが、強化されつつあった農奴制に対して立ち上がったもの。首謀者は、ヤイク・コサックのエメリヤン・プガチョフ。カテリーナの夫で殺されたピョートル3世を僭称し、一時はウラル南部一帯を制圧する勢いだった。
プガチョフの王冠は、ツァーリを僭称したときに用いたもので、ダイヤモンドを散りばめた華麗なものだったという。言い伝えによると、この王冠は、プガチョフスカヤ村近くのクルガンの一つに隠された(現ヴォルゴグラード州コテリニコフスキー地区)。
反乱軍は各地で地主貴族を略奪し、獲得した財宝でさらに軍を増大して各地に展開していった。しかし、戦線の広げすぎと戦力の分散が命取りになる。
財宝:ダイヤモンドをはめ込んだ黄金の王冠
場所:ヴォルゴグラード州コテリニコフスキー地区
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