ロシア・アニメーション百年祭(I)

今年はロシアのアニメーション誕生から100周年。この偉大な創造的分野で、最初の30年間に何が起きたのだろうか。1912年から1940年までにロシアの巨匠によって作られたアニメーション作品のいくつかの断片を紹介したい。

長い間、ウラジスラフ・スタレービッチがロシア最初のアニメーターだと考えられてきたが、最近の研究の結果、ロシア初のアニメーターは、アレクサンドル・シリャエフ(1867~1941年)であることが判明した。彼はマリインスキー劇場のバレエ・マスター(舞踏監督)であり、1906年に、動かない背景をバックに踊る12の人形を映した、世界初の人形アニメーション映画を製作した。

ロシア・アニメの父スタレービッチ 

ウラジスラフ・スタレービッチは、生物学者として教育を受けたため、教育目的で、標本の昆虫を使ってアニメーションを作り始めたが、すぐに、この媒体の無限の可能性に気づいた。彼の最初のヒット作 「麗しのリュカニダ」(1912年)は残念ながら残っていない。しかし、「カメラマンの復讐」という、同じく1912年に作られた作品がある。

ソ連の初期アニメ 

 1917年の10月革命後、彼は移住し、長年、ロシアのアニメーションは停止したままだった。1920年代後半にようやく、ソ連当局は実験スタジオのための資金を提供した。これらのスタジオは通常、大きな映画スタジオの一部であり、最初のうちは、プロパガンダ用の短いアニメを作るために主に使われていた。

 この時期の目立った作品としては、デニス·ベルトフの「ソビエトのおもちゃ」(2)とゼノン・コミサレンコ、ユーリー・メルクロフとニコライ・ホダタエフによる「惑星間革命」(3)がある。どちらも、1924年の作で、ソ連時代初期の改革とプロパガンダの熱気が感じられる。しかし、当時のすべてのアニメが政治的なものだったわけではない。1927年に作られた、ユーリー・ジェリャブジスキーとニコライ・バルトラムによる「アイスリンク」(4)は、異色の喜劇だ。

ロシアのアニメーションの歴史の中で最も重要な監督の一人だと考えられているイワン・イワノフ=ワノは、1933年に、レオニード・アマルリクの助けを借りて、「黒と白」(5)を製作した。この作品は、アグレッシブな帝国主義者によって虐待される黒人の不幸について物語る。政治的意味合いが強いにもかかわらず、この短編は、非常に印象的で、素晴らしい。

実験精神の後退 

ソ連作家同盟が社会主義リアリズムの必要性を宣言した1932年以降、アニメーションにおける未来派とロシア・アバンギャルドの影響は激減した。実験的アニメはもはや眼中になく、以後20年以上にわたり、アニメーション・スタジオ「ソユーズムルトフィルム」は政府に管理され、労働の分担とセル技術を使うようになる。同スタジオは、ソ連一の規模を誇り、子供用、そして教育用のアニメの短編と長編を生産したが、創立された頃の実験精神は失われた。

プロパガンダの制約のなかで 

忘れてはならないのは、アレクサンドル・プトゥシュコ。彼は建築家としての教育を受け、機械工学の技師として働いていた。この分野では、彼は1970年代までソ連で使用されていた加算器の発明で知られている。

彼がモスフィルムの人形アニメ部門に入った時、機械だけでなく、芸術的なものを追求するための理想的な環境を見つけ、ソ連初の長編アニメーション映画 「新しいガリバー」(1935年)(6)を制作し、世界的に有名になった。この映画は人形アニメーションと実際の演技の両方を用いた。ジョナサン・スィフトの「ガリバー旅行記」より、共産主義のイデオロギーに合うように“修正”されており、教訓めいているため、時々見るに耐えない。しかしながら、アニメ自体は傑作で、見事な群集シーンや、非常に表現豊かな接写や、革新的で柔軟なカメラワークが見られる。プトゥシュコは新設された子供用アニメーション・スタジオの初代ディレクターになったが、それから間もなく、通常の映画製作をするために去った。