民間治療師、セルゲイ・ ネチャーエフさん =キリール・ラグーツコ撮影
部屋の壁の一つには床から天井まで刀、戦斧、細棒といった中国の武具がグロテスクな仮面とともに掛けられ、別の壁には等身大の人間が描かれた鍼術図と証明書が掲げられている。その一つには「民間治療師。セルゲイ・ネチャーエフ」と記されている。
薬草、鍼(はり)、マッサージ、軟膏、これがセルゲイの主な治療の手立てだ。「私の本職は空中アクロバット」。セルゲイ・ネチャーエフは同い歳のロシア人なら真似のできないようなあぐらを組んで微笑む。いかにもセルゲイらしい。
「サーカスの芸人たちは医療とは無縁でよく骨折しますが、逆のことが起こったのです」と彼は続ける。サーカス学校に入るまではボクシングをやっていた1966年、セルゲイは肩を脱臼した同僚という最初の患者とリング上で出会った。
セルゲイは「健康な人は治療して、病人は救わなくてはなりません」と語る。
しかし、そんな患者は少数で、そのままずるずるいってしまうことが多い。
ある時、チェチェンでの公演の際、セルゲイは老人の足を切断せずに、呪文で治した。
「その後は結婚式や誕生日に呼ばれっぱなしでした。呪文を唱えて欲しいって」と言って治療師は笑う。
刑務所の囚人たちを結核から救ったこともある。
「人はみな神の創り給いしもの。あなたもまた。私は神の創造物を癒すことで神に仕えているのです」。
その後、乗馬競技、歴史映画(『美徳の副官』(1969年)、『赤いテント』(1969年)のスタントマン、落馬、爆発の巻添えなどを経験した。
セルゲイは俳優学校で最初の師と出会い、その中国系の人物から鍼を教わる。鍼は買うことができなかったので、ドイツ製の弦を買い、その銀鍍金の鋼を切って鍼を作った。効果を調べるために自分に試し、抜き方は台湾で覚えた。
徐々に仕事仲間の軽業師たちがやってくるようになる。「2回宙返りをしくじっちまった! すると私はその哀れな曲芸師たちに鍼を刺すのです。でないと、ギプスや包帯ということになり、何の治療も施されないからです」。
彼は1980年にサーカスをやめ、ボリショイ劇場のアーチストやモイセーエフ・アンサンブルのダンサーたちを治療し、それと並行してさらに25年スタントマンを続けた。
その時、神経外科研究所へ招かれた。「そこでは手術後にひどい痛みが残りました。薬は効きませんでした。そこで私はこの激痛を和らげる研究に取り組みました」。協力は1982年から2005年までの長きに亘って続いた。
医師たちとは常に相互理解を見出している。「さっと見れば治療師はどんな人か分かります。そもそもロシアには最初は民間療法しかありませんでした。薬草は神が創ったもので、薬草を信じない者は神を信じない者です。後に人々は不完全な頭脳で薬品を作りましたが、これでは一つの病も治すことができません。急性から慢性に変えるほかには」。
セルゲイは、今最も大事なのは医学教育の改革であると語る。
「医師には東洋医学の知識が必要で、それがないと無数の過ちを繰り返すでしょう。西欧医学は人間を物質主義的に捉えています。骨、筋肉、血液、リンパという風に。何のおかげですべてこれが働いているのでしょう? それが分からずに医師はどうやって治療できましょう?医師は非客観的な治療・手術を指示しているのです」。
医師たちとは瞬時に理解が見いだせても、一般の人々となるとそうはいかない。セルゲイはビデオを見せる。ロシアの大手企業幹部であるアメリカの実業家は、セルゲイが脊椎手術をせずにマッサージでヘルニアを治したことを切々と語る。
「私はすべての患者に治療後の容態を訊ね、その様子を彼らの同意を得たうえで録画しています。なぜですかって? 誰がそう易々と治療師を信じますか?」。
実際、ロシアでは治療師はペテン師呼ばわりされそうなほど疑いの目で見られている。セルゲイはこう語る。「ペテン師は別の職業です。正にそれで治療師はたいてい自分の腹を明かさないのです」。信用されない代わりに信用もしないというわけだ。
「あなたは誰かに自分の経験を伝えていますか」との質問にセルゲイはうろたえる。「何みたいに? 鞄みたいに?」。これは責任ある仕事なのだ。法的にも道義的にも。
「失敗はあったかですって? あったとしたら、私はすでにいないか、刑務所に入れられています」とセルゲイは語る。正にその通りだ。
彼のもとにやってくる新たな患者の目にはまた不信の影が宿る。セルゲイは成果を残すことによってしか自分の力を証明することができず、この闘いには終わりがない。
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