南オセチアとアブハジア

=オクサナ・ユシュコ撮影

=オクサナ・ユシュコ撮影

2008年8月26日、メドベージェフ大統領(当時)は、南オセチア紛争を受けて、南オセチアとアブハジアの独立を、ロシアが承認したと発表した。他に独立を承認したのは、ニカラグア、ベネズエラ、ナウル、バヌアツ、ツバルの5カ国。紛争から4年経つのを機に、事件を振り返ってみた。

=オクサナ・ユシュコ撮影


ツヒンバリでは今月、2008年南オセチア紛争と独立承認の4周年行事が行われた。毎年8月8日には、ロシアでも追悼式が行われている。

グルジアは南オセチアを支配下に収めようと、2008年8月7日深夜から8日にかけて、南オセチアの首都ツヒンヴァリをロケット砲「グラード」(ソ連が開発した122mm自走多連装ロケット砲)で集中攻撃し、地上作戦を展開した。翌日、未承認国家共同体加盟国(沿ドニエストル・モルドバ共和国、アブハジア、南オセチア)の軍事支援協定にしたがい、アブハジアが正式に参戦した。

民族主義の連鎖 

2008年の南オセチア紛争は、長年にわたるグルジア人とオセット人の対立の帰結となった。そのきっかけは、1980年代末に、グルジアが民族主義的傾向を強め、連邦からの独立を目指した結果、他の少数民族との関係が悪化したことだ。

こうした状況は、まずアブハジア人とオセット人に影響した。すでに自治州を構成していた両民族は、今度は自分たちが独立を要求するという、いわば入れ子型の展開となった。

1991年にグルジアが独立宣言をし、その年末に連邦が崩壊すると、アブハジアと南オセチアは、ソ連時代に締結されたグルジア・ソビエト社会主義共和国編入協定を引き合いに出し、ソ連からの脱退を事実上拒否した。

南オセチアの政治闘争は軍事衝突に発展し、1991年に紛争地域となった。1992年、ロシア、グルジア、南北オセチアの4者による紛争調停の原則に関する協定が署名され、7月14日、平和維持軍(ロシア、南オセチア、グルジアの混成軍)が導入された。これに先立って、南オセチア共和国最高会議は、国家独立法を採択し、自称独立国となった。

グルジアの真意は? 

16年間紛争は凍結された状態にあったが、2003年、「バラ革命」で政権に就いたミヘイル・サアカシュビリ氏は、独立を自称している地域をグルジアに再統合する意向を明らかにした。

アメリカのジョージ・ブッシュ大統領(当時)は、エネルギッシュで、英語を流暢に話し、アメリカで学んだ経験のあるサアカシュビリ大統領に肩入れした。

サアカシュビリをとかく苛立たせたのは、グルジア側から南オセチアが封鎖されていた時代、親ロシア派のオセット人の多くが、ロシアのパスポートを受給していたことだった。

サアカシュビリ大統領は、欧米という強大な庇護者への信仰で混乱したのか、ロシアが応戦しないことを期待しつつ、眠れるツヒンヴァリの攻撃に踏み切った。

NATO規格で武装し米国に養成されたグルジア軍が攻撃を始めたとき、その進行路にあって応戦したのは、ロシアの平和維持軍の軍人583人と南オセチア義勇軍だった。

攻撃から数時間後、ロシア軍が、メドベージェフ大統領(当時)の指令に従って、南オセチア領内に進攻、グルジア本土も攻撃し、5日間の戦闘でグルジア軍を圧倒した。南オセチア政府のデータによると、この8月の紛争で1500人以上が犠牲となった。