「第三のローマ」
1533年にわずか3歳でモスクワ公国の大公に即位したが、実権は貴族が握っていた。貴族間の権力争いに母方のグリンスキー家が勝利すると、イワン4世は、1547年に史上初めて「ツァーリ」として戴冠した。
生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)での戴冠式には「モノマフの帽子」が使われ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の継承性が強調された。これはイワン4世の専制を支える理念となった。
16世紀ヨーロッパで、絶対君主制が発展し、列強の力関係が激変するなか、イワン4世も、貴族層の権力抑制と自らの専制を目指したが、これはとくに治世後半に、粛清と恐怖政治という弊害も生んだ。
極端な明と暗
対外的には、東方の領土を大きく拡大することに成功した。カザン・ハン国とアストラハン・ハン国を1552年と56年にそれぞれ併合し、最晩年には、ストロガーノフ家の援助でシビル・ハン国に進出しようとしていたコサックの首領エルマークにお墨付きを与え、シベリア征服事業を成功裏に進めた。
赤の広場の聖ワシリイ大聖堂は、対カザン・ハン国戦勝記念に建てられたものだ。
その一方で、ヨーロッパとの交易を拡大するため、年間数ヶ月しか使えない北極海航路に代わり、バルト海に進出しようとして、欧州列強とのリヴォニア戦争に突入し、結果的に何ら得るところなく、国家を疲弊させた。
この間、イワン4世はノブゴロドの敵方への内通を疑い、その有力者と市民数万人を虐殺している。
バルト海進出の課題は、のちに17世紀前半にピョートル1世(大帝)が実現することになる。
暗殺の恐怖のなかで
1560年に、最愛の妻アナスタシア・ロマノブナ(後のロマノフ朝はこのロマノフ家の王朝だ)が死ぬ。1996年に公表された遺体の調査結果では、毛髪から大量の水銀が見つかっている。
水銀は治療薬として使われていたので、毒殺と断定はできないが、当時は暗殺、毒殺が日常茶飯事だった時代で、イワン4世自身は毒殺を確信していた。
この悲劇以降、イワン4世には残虐さと奇矯さが目立つようになる。晩年の1581年には、後継者に定めていた息子イワンを殴り殺している。
1584年、イワン4世は死去する。1963年の遺体の調査では、砒素と大量の水銀が発見されており、暗殺説もあるが、確定されていない。
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