ピーター・ヴォン・ヘス
ナポレオン、露軍の各個撃破をねらう
1812年6月24日にナポレオンと約60万の大陸軍は、ロシア帝国国境のネマン川渡河を開始した。
ロシア側は、仏軍の出方がわからなかったので、あちこちに軍隊を分散させていた。主力は総司令官バルクライ・ド・トーリの第1軍(約13万)とピョートル・バグラチオンの第2軍(約5万)だったが、前者は北、後者は南にあり、ちょうどその真ん中に仏軍の主力が割って入ったかたちだ。
ナポレオンは、各個撃破をはかったが、補足できず、ロシアの両軍は、スモレンスクで合流に成功し、ここで最初の会戦となる。
ロシア側の焦土戦術
ロシア側には、広大な国土をフルに使って、撤退しつつ焦土戦術を展開し、国土の奥深く誘い込み、冬をまつ、という作戦が、アイデアとしては戦前からあった。
じっさいに起きたところをみると、ロシアの両軍とも、撤退しつつ焦土戦術をおこなっているので(食料、飼料は残さず、井戸は馬の死体を投げ込むなどして汚染し、家屋は焼き払う)、アイデアが実施されたようにみえる。
焦土戦術がおよそ徹底していたことは、コランクール(当時、馬事総監、前ロシア大使、のちに外相)やセギュール(ナポレオンの副官)などの回想録でたしかめられる。
また、当時ロシア軍に勤務していたクラウゼヴィッツは、回想の『1812年』で、とにかくこの戦争では、両軍とも水不足に苦しんだことを強調している。ときに、汚い水たまりの水も飲まなければならなかった、という。参謀本部の将校でもこのありさまだとすると、露軍が荒らしまくったあとを行く仏軍の苦労は、水ひとつとっても並たいていではなかったろう。
焦土戦術と水不足、補給の困難などがあいまって、仏軍がスモレンスクにたどりついたときには、18万5千人に激減していた。仏軍の行軍は、補給線が延びるにしたがって、いよいよ困難になっていった。
露軍、仏軍の捕捉をまぬがれ、スモレンスクで合流
露軍は、8月3日にスモレンスク付近で合流(12万5千人)。まだ人数的には仏軍のほうがだいぶ優勢だが、将兵は、撤退一方で不満たらたらだったところ、主要都市で合流を果たしたことで、一気に戦意が高まった。
バルクライは、さらに撤退・焦土戦術をつづけるべきだと考えていたが、軍議で一戦まじえることに決まった。
スモレンスク市は、ドニエプル川の切り立った南岸にあり、周囲を城壁で囲まれている。守るに堅固な城砦ではあったが、これにこだわると、仏軍に迂回されて、街道で後手に回る危険があった。仏軍に先回りされて、退路を絶たれるのがいちばん怖い。
露軍、仏軍に迂回されることを恐れ、退却
露軍の奮戦は、仏側の証言でも裏付けられるように非常なもので、16日には大激戦となったが、同日夜、バルクライは、街道を遮断されることをおそれ、バグラチオン軍を街道の先のヴァルーチノに遣り、「退路を守らせる」こととした。これは事実上の退却の開始にひとしい。
露軍は目的は達したが、不満は高まる
露軍にしてみると、一戦を交え、将兵は敵も認める奮戦をみせ、やれる!という自信をもって、ぶじ軍を守り退却できたことで、この時点での目的は達したといえる(またもや退却をつづけることで、将兵は司令部に不満も抱いたが)。この時点で、仏軍と大会戦をやって撃滅し戦争を終わりにできると思っていた人は、軍の上層部でも宮廷でもほとんどいないだろうから。
もっとも、これまでずっと退却つづきで、主要都市をいくつも失ったというので、将軍たちはアリバイ作りに、おたがいに陰口をたたきあった。とくにバグラチオンは、アレクサンドル一世の側近中の側近アラクチェーエフやモスクワ総督ロストプチンなどに、バルクライの悪口を散々書き送っており、バルクライは総スカン状態となった。これが総司令官交代につながっていく。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。