「ボリスとグレープの日」

ボリスとグレープ。イワン・ビリビンの絵

ボリスとグレープ。イワン・ビリビンの絵

8月6日は、ロシアで最も代表的な聖者であるボリスとグレープの日だ。

ボリスとグレープは、ロシア国家の黎明期にロシア正教会(コンスタンティノープル教会キエフ府主教座)で最初に列聖された。ボリスとグレープは、ロシアを国ぐるみでキリスト教に改宗させたウラジーミル聖公の息子たちで、1015年にウラジーミルが死んだのちに跡目争いに巻きこまれ、異母兄「呪われた」スヴャトポルクに殺害され、遺骸がヴィシェゴロドに改葬される1072年までに列聖されたと考えられている。

一連の事件ののち11世紀後半から12世紀初頭にかけて、殺害の経緯と死後に彼らが起こした奇跡は、『過ぎし年月の物語』における「ボリスの殺害について」の記事、『聖なる殉教者ボリスとグレープに捧げる物語と受難と頌詞』、『聖なるキリストの殉教者ロマンとダヴィデの奇跡に関する物語』、『聖なる受難者ボリスとグレープの生涯と死についての説教』、以上の4点の作品にまとめられた。

「命幼き私を殺さないでください」 

ボリスはスヴャトポルクによって遣わされた刺客によって殺された。そのさい、自らの死を予期したボリスが、死から免れるように神に祈った。その後、死の直前の祈りにおいて、自らの死をキリストの磔刑と準えて過酷な運命を受けいれた。これは、4点いずれにも共通する記述である。

「私は自らの兄に手を上げるようなことはできない。そのうえ彼は私より年長ではないか。私は兄上を父上と同じように敬っている。」「主イエス・キリストさま!人間の姿をして地に現われ、自らの意志によって自らを十字架に釘で打ちつけ、われらの罪を背負って受難を受けた方よ、私もあなたのように受難を受けるにふさわしいものとしてください。」(『物語』)

『物語』によると、グレープは殺されるときに、刺客たちにたいして命乞いをしている。この部分の生々しさは作品のクライマックスともいえる。

「私の若さをかわいそうだと思ってください。情けをかけてください。命幼き私を殺さないでください。いまだ熟さない穂を刈りとらないでください。まだ母の乳にぬれたままの私を。成長しきらないけれども実りをつけた葡萄の蔓を切らないでください。」

スヴャトポルクによるボリスとグレープ殺害は、旧約聖書『創世記』のカインによるアベル殺害とのはっきりとした類比において捉えられている。

不気味な奇跡 

ボリスとグレープが非業の死をとげたあと、不気味な奇跡が起こりはじめる。

ヴァイキングたちがボリスとグレープの柩の前にやってくると、柩から炎が噴出し、そのうちの1人がひどい火傷を負った。以後、人々は恐れてひつぎのそばには近づかなくなった(『奇跡にかんする物語』、『説教』)。

ボリスとグレープの遺骸が安置された、ヴィシェゴロドの聖ワシーリイ聖堂から火が出て、聖堂が丸焼けになった。聖具は運び出されて無事だった(『奇跡にかんする物語』、『説教』)。

1072年のボリスとグレープの遺骸の移葬のさい、スヴャトスラフ・ヤロスラヴィチ公は聖グレープの遺骸の腕をもちあげ、自らの首の腫れ物に触れさせた。スヴャトスラフ公はこのあと頭に異物の存在を感じたので、よく見させてみると、グレープの爪がスヴャトスラフ公の頭に刺さっていた(『奇跡についての物語』)。

ほかにもいくつかの“祟神”を思わせるような奇跡が伝えられている。


祟神から聖人へ 

ボリスとグレープの列聖はキリスト教黎明期のロシアにおいて、巨大な意味をもつ事件であった。それは、「若さにもかかわらず痛ましい殺され方をしたボリスとグレープが不浄なものとして大地に受け入れられず、この世に戻って害悪をもたらす」という神話が、「年長者への服従を貫き、無抵抗でひたすら祈ったことで彼らが神に好まれ、祝福され、天上の王国にいる」という神話に置き換えられることを意味した。

キリストの勝利を華麗に演出するおごそかな宗教儀礼に惹かれて、ギリシア正教を受容したキエフ・ロシアは、ボリスとグレープの列聖によって、つねに虐げられたものの立場に立つというイエス・キリストのあり方にはじめて気づき、それを受けいれたのである。

たんなる政治的な祭り上げではなく、ボリスとグレープの兄で、内訌を勝ち抜いたヤロスラフ賢公以下の深い祈りがそこにはあった。

(以上、三浦清美氏の論文「ボリスとグレープの列聖」によった)

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