詩人マヤコフスキーの愛人、リーリャ・ブリークが自殺

ミューズの死

1978年の今日、リーリャ・ブリークが自殺した。

彼女は、詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの愛人で、「ロシア・アバンギャルドのミューズ」と呼ばれた。86歳だった。この多才で奔放な「運命の女」を憎み、「邪悪な天才」と呼ぶ者も少なくなかった。

マヤコフスキーは初めリーリャの妹エリザと付き合っていたので、二人は1913年からお互いのことを知っていた。エリザが姉を詩人に引き合わせたのは1915年のことだ。

 

「愛してる愛してる愛してる…」 

1918年には、詩人はリーリャに、ЛЮБの3文字を彫った指環を贈った。«люблюлюблюлюблю...»と際限なく読めるように。«люблю»はロシア語で「愛してる」という意味なので、(愛してる愛してる愛してる…)となるわけだ。

リーリャはこのときもう文学者オシップ・ブリークと結婚していたが、周囲の意見は、彼女にはどうでもよかったようだ。

1930年4月14日、マヤコフスキーはピストル自殺した…。直接のきっかけになったのは、詩人と人妻とのロマンスだが、リーリャとの長年の苦しい三角関係、政治的、文学的な孤立など様々な理由が積み重なったものと考えられている。

独裁者への手紙 

詩人の死後、彼の作品はあまり出版もされず、徐々に忘れ去られようとしていた。リーリャは、スターリンに手紙を書き、「革命の偉大な歌い手にして新時代の詩人」が忘れられようとしている、と訴えた。

スターリンは直ちに反応し、「マヤコフスキーは、われらがソ連時代の最良かつ最も才能ある詩人であり続ける。彼の記憶と作品への無関心は、犯罪だ 」と言った。

こうして、マヤコフスキーの死後の“名声”は定まり、マヤコフスキー博物館が創設されることになって、リーリャはそのために尽力した。

君も同じことをすることになるよ 

詩人の死後、リーリャは二回結婚しているが、詩人の思い出は生き続ける。

70年代の彼女の日記―。

「こんな夢を見た。私はボロージャ(ウラジーミルの愛称)に、なんでピストル自殺なんかしたのよ、と怒っている。彼は優しく私の手にちっちゃなピストルを握らせて、『君も同じことをすることになるよ』と言う」。

夢は正夢となった。

86歳のとき、彼女は転んで大腿骨を骨折し、再び立って歩くことはできないと思われた。1978年8月4日、リーリャはペレデルキノの別荘で、致死量の睡眠薬をあおり、自殺した。