存続する日本正教会

イオアン師(小野氏)の先祖は、日本の最初の正教徒の一人だ  =James Whitlow Delano撮影

イオアン師(小野氏)の先祖は、日本の最初の正教徒の一人だ  =James Whitlow Delano撮影

今秋、ロシア正教会の最高指導者、キリル総主教が訪日する。ロシアでは日本に小規模ながらも正真正銘の正教会があることを知る人は少ない。それは日本も同じことで、日本正教会と名づけられているのが地理的ではなく、民族的な特徴からであることを知る人はさらに少ない。そして、新たな信仰に自分たちの伝統の活路を見出したのが元のサムライだったことを知る人はまずいないだろう。

札幌にある主の顕栄聖堂の主任司祭イアコフ(篠永)は、祈祷後にこう語った。「うちは正教徒の家系でした。曾祖父は日本人初の正教徒、パウロ沢辺から洗礼を受けました。私が教会へ行くようになったのは結婚してから。その後、東京の神学校を卒業し、しばらく輔祭を務め、3年前に司祭になりました」。
16世紀半ばにポルトガル、スペイン、オランダのカトリック宣教師によって日本にキリスト教が伝えられた。新しい信仰はまたたく間に広まったが、宣教師たちの存在は当局に危惧の念を抱かせ1639年、キリスト教信仰は完全に禁じられた。、キリスト教を弾圧する法律が撤廃されたのは1873年になってからだった。日本における正教誕生の歴史はトム・クルーズ主演の映画『ラストサムライ』の筋書きを想い起こさせる。物語は19世紀後半の明治維新という歴史的事象を背景に進行する。ただし、アメリカの士官ネイサン・オールグレン大尉の代わりに、若きロシアの修道司祭ニコライ・カサトキンが函館の港へやってくる。

日本では、正教寺院でも中に入る時は靴を脱ぐので

ロシア人の多くは驚く。

その使命は官軍に近代的兵法ではなく、福音を伝えることだった。後の聖人ニコライは人々に福音の真実を教える前に8年間、自ら日本の言語や伝統、文化を学んだのだ。
正教に入信した最初の日本人は沢辺琢磨、聖名パウロ沢辺だった。殺害する覚悟で司祭ニコライの家を訪れ、詰問したが、逆にさとされ、信者になった。土佐藩出身の侍で、函館で宮司をしていた剣術の達人だった。
沢辺は4年後、洗礼を受ける。投獄され、もしも反キリスト教的な法律を緩和する改革が遅れていたら死刑になっていただろう。
しかし、試練は元侍を鍛え、さらに3年後、司祭となる。その頃までに日本人の正教徒はすでに数百人に達しており、その多くは軍人階級に属していた。
仙台の主教セラフィムは「初期の頃には日本における正教は侍の宗教でした」と語る。セラフィム氏は20年前には報道写真家だったが、あるとき小さな正教の聖堂が目に入り、それが人生の転機となった。
まず第一に、支配階級としての侍は、進取の精神をそなえた教養あふれる人たちだった。

函館のボスクレセンスキー(復活)聖堂はロシア

の領事館が函館に開設されたのに伴い建てられた。

聖堂の司祭として1861に来日したのが

ニコライ・カサトキンだ。

第二に、明治時代に入ると、彼らは、居場所がなくなり、変革を欲していた。当時、古い時代の人々は天皇の権力にはじかれるように北へ退き、故郷へ散りながら全国に新しい信仰を広めていった。
しかし、中心的役割を演じたのはもちろん、聖人ニコライだった。今年はちょうど聖人の没後百周年にあたる。
その偉業の一部を数字で挙げれば、1つの大聖堂、8つの聖堂、175の教会、115人の宣教師ということになる。日本に正教が根づくうえで計り知れない役割を演じたのは、日本語で年間の奉神礼を執り行うために文言を翻訳する作業だった。

ワシリー・サプリン在札幌ロシア総領事に「革命、もう一つの戦争、クリル(千島)問題がなかったなら、正教は日本の主たる宗教の一つになっていたのでは」と尋ねた。総領事に代わってタチヤーナ夫人が答えた。「反対に、そうした試練が正教の存続を手助けしたのです。それらがなければ、きわめて宗教的内容に乏しい慈善団体と化していたでしょう」。

(「ルスキー・レポーター」誌抄訳)