湖底の町キーテジ

スベトロヤール湖は、昔から多くの伝説や噂につつまれていた。=タス通信撮影

スベトロヤール湖は、昔から多くの伝説や噂につつまれていた。=タス通信撮影

ニジニ・ノブゴロド近郊のスベトロヤール湖で、考古学者らがキーテジの町の痕跡を発見か? キーテジは、中世ロシアの伝説の町で、義人とともに湖底に消えたと伝えられる。古代ギリシャの哲学者プラトンの著作などに記されている、大西洋の海底に消えた幻の大陸アトランティスになぞらえて、「ロシアのアトランティス」とも呼ばれる。

湖で発見された集落

数千個の陶器の破片、折れた鉄剣、馬具の切れ端、石臼、火打金、――600年前にスベトロヤール湖畔に住んでいたロシア人が残した痕跡というのは、これがほぼすべてだ。もうひとつ、水深50センチのところに見つかった丸太小屋の跡らしきものもある。

「これはきっと、町と言うよりも集落だったろう」と、考古学調査団長エフゲニー・チェトベルタコフ氏は言う。

「つまりここにあったのは、いくつかの仕事場を備えた家屋一棟で、10人~15人が住んでいた。実際には、この集落は大規模なものだったかもしれないが、その後、集落の一部が地すべりでスベトロヤール湖に消え、それがキーテジの町の謎の消失という伝説の基になったのではないか。とは言え、その時代については、今はまだ仮定で言えるだけだ」。

伝説の誕生

 

スベトロヤール湖は、昔から多くの伝説や噂につつまれていた。ほぼ理想的な楕円形で、冷たく透明な湖水を湛えたこの深い湖は、この地の風景全体から、あまりにも際立って見える。

この湖がどのように出現したのかは不明で、ある考古学者らは、スヴェトロヤール湖は地震で出来たのだと断言し、またある考古学者らは、先史時代の隕石が原因で、そのクレーターに水がたまったと論証しようとする。

ニジェゴロド州の人たちはみな、キーテジの伝説は大昔からのものだと信じている。だが、この聖なる町が最初に言及された時期は新しい。キーテジの町の城壁の下で殺された、聖ゲオルギー・フセーボロドビッチ公の死についての伝説は、18世紀の80年代~90年代に、古儀式・逃亡派教徒らによってまとめられた『キーテジ年代記』に書かれている。 

この年代記によれば、町はゲオルギー公によって創建されたのだが、数年もたたないうちに、バツ率いるモンゴル軍の来襲で町が破壊された。バツは湖畔の町、大キーテジを占領し、ゲオルギー公を殺した。それ以来、この町は目に見えなくなったという。しかし、口頭伝承では、町はバツに占領される前に、神の恩寵で隠され、見えない町になったとされ、差異がある。今でも、夏の穏やかな日などには、湖の中に、教会や宮殿や家並みが見え、鐘の音が聞こえることがあるという。

17世紀の上からの強引なロシア教会改革と、なおも和解していなかった分離派旧教徒にとって、義人らとともに消えた町の伝説が、自分たちの信念のために森に隠れねばならなかった彼らの籠城生活の反映であったことは指摘しておかねばならない。そしてキーテジ滅亡の物語が、姿を消した聖なる町の伝説に徐々に変化していった。義人たちが労働と祈りのうちに暮らし、選ばれた人たちだけが辿りつけるという町の伝説に変わっていったのだ。

足もとの宝物

 「ロシアのアトランティス」がソ連の歴史家たちの関心を引くことはなく、ここに最初の学術調査団が現れたのは、わずか40年前のこと、「文学新聞」の提唱による調査団だった。1968年に学者らは、湖の周辺を隈なく調査し、アクアラングをつけたダイバーらによる湖底の起伏調査さえ行われた。

だが残念なことに、19世紀以前の人間の痕跡は何ひとつ見つからなかった。そして学界では、キーテジの町なるものは全く存在しなかったというのが、長年、定説になっていた。もし6年前にベトルーガ考古学調査団が組織されなかったとしたら、スベトロヤール湖畔はそのまま、研究されないままだったろう。そのとき学者らは、以前の発掘調査跡を訪ね、とくに、すでに19世紀から古い小礼拝堂が建っているクレストボズドビジェンスキー丘(十字架を建立する丘の意味)を調査することにした。

最初のシーズンである2011年夏に、思いがけない発見があった。丘の斜面で古代集落の跡が見つかったのだ。毎年、湖畔から教会堂へと十字行(正教会 で奉神礼として聖堂外で行われる行列・行進)が上っていくその道で、学者らは、ロシアの伝統的な陶器のかけらを発見した。また教会堂の裏手には、当時のロシア人集落の遺跡を発見した。学者らは、今年も発掘を継続する意向で、発見された集落は古代村落の一部にすぎないと確信している。クレストボズドビジェンスキー丘は絶えず地すべりに見舞われ、地すべりの一つが、ロシアの古い町を呑みこみ、神話の起源になったというのだ。

「そのほかに自信をもって言えるのは、この集落が、何か我々の知らない理由で、住民らに放棄されたということだ」とチェトベルタコフ氏は言う。「1408年にジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の将軍エディゲの軍勢によってニジニ・ノブゴロドが破壊されてまもなく、ニジェゴロド公国の経済的衰退により、人々が集落を放棄したのかもしれない。そのあと新しい住民がここへやってきて、この見すてられた町の遺跡を見つけた。そこで妙なる町キーテジの伝説が生まれ、これが代々伝えられていったのかもしれない」。

*キーテジの伝説について詳しくは次の本を参照。

中村善和『聖なるロシアを求めて:旧教徒のユートピア伝説』(平凡社ライブラリー)、2003年。

「アガニョーク」誌抄訳

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