ナタリヤ・コスターキの肖像 写真提供:「ポリーナ・ロバチェフスカヤ」ギャラリー
「また新しい絵を描くさ」
ズベーレフは1931年生まれで、第二次世界大戦を経験し、ペレストロイカが始まった1986年に55歳で他界した。生前に残した作品は3万点を数える。
1976年、ギリシャ系ロシア人でアバンギャルド美術の大収集家であるゲオルギー・コスターキ(1913~1990)の別荘で、火災が発生した。
シュプレマチスムは、抽象性を徹底させた絵画の傾向で、1915年にロシアの画家カジミール・マレービッチが主張した。彼の「黒の正方形」などが代表作。
誰もがズベーレフの作品の多くが焼失したと思い、コスターキもひどく落胆して、ズベーレフに電話をかけた。
「ぜんぶ焼けてしまったよ!」
ズベーレフはすかさず質問した。
「誰もケガしなかった?」
「しなかったよ」
「それは良かった。絵なんてまた新しいのを描くさ」
「レーニンか俺か!」
ズベーレフは、根っからの自由人で、反骨的で鼻っ柱が強く、絵画だけでなく日常生活でも、停滞や規範を嫌った。モスクワの美術学校は「服装の乱れ」を理由に退学となり、兵役は精神分裂症との“診断”で免除となった。この「天才放浪者」は、小市民的な“良識”に日々挑戦しながら暮らしていた。
ブレジネフ書記長時代の1970年代半ば、森からはい出してきたばかりのパルチザンのごとく、いつものボロボロのジャケットを身にまといモスクワの地下鉄に乗ると、断固たる口調で叫んだ。「どちらかを今選んでくれ、レーニンか俺か!」
当時こんなふるまいをした者は、「反ソビエト分子」のレッテルを貼られ、数年間自由を拘束された。
色彩の悪夢から美しい花が
ズベーレフは目に入ったものすべてを描いた。絵の具が手元にない時は、木炭、ジャム、ビーツ(赤甜菜)まで使った。筆の運びはいつも速かった。画家のドミトリー・プラビンスキーさんはこう語る。
「ひげそり用ブラシやテーブルナイフなんかで、グワッシュ絵の具(不透明な水彩絵の具の一種)と水彩絵の具を使って、キャンバスにひたすら没頭するのです。汚れた水をキャンバス、床、イスにぶちまけ、その水たまりにグワッシュの缶を投げつけてひっくり返し、雑巾や自分の靴で混ぜこぜにします。その『色彩の悪夢』を、ひげそり用ブラシでなぐりつけ、テーブルナイフで二、三本の線を引くのです。すると、見る見るうちに芳しきライラックの花束が生まれてくるのです!」
長高精度カメラ
肖像画やグラフィック画も傑出していた。コスターキは、「ズベーレフの筆ほどの速さと精度で人間の特徴をとらえるカメラは、現代でもまだ発明されていません」とお気に入りの作品を評価していた。
イギリスの外交官やソ連の人気女優たちが作品を買っていたにもかかわらず、いつも金欠状態にあった。友人だった画家ビャチェスラフ・カリーニンさんはこう回想する。
「いたずらっぽくウィンクして、『1ルーブル貸してくれ、永遠の友よ』と言っていたハスキーな声を、昨日のことのように思い出しますよ」。
「師匠はファン・ゴッホ、ブルーベリ、ダ・ビンチ」
ズベーレフのエキセントリックな言動は、しばしばシュールレアリスム(超現実主義)の巨匠、サルバドール・ダリのそれと比較される。
「炎のズベーレフ」展
モスクワの「新マネージ」展示場で、「炎のズベーレフ」展が開催され、母国でまだ過小評価されている天才画家の作品を多数見ることができた。1976年、収集家コスターキの別荘で奇跡的に火災をまぬがれた200点も展示されており、非常に興味深い。作品の一部には端が焦げているものもあり、不思議な魅力が増している。自然の力に負けなかったこれらの作品には、あたかもズベーレフの反骨精神が宿っているかのようだ。
しかし、ズベーレフの奇行は、意図してのものではなく、評判を気にすることはなかった。さすらう魂が彼を引きずり、一般的な規範から逸脱させてしまったにすぎない。
ズベーレフは、自分の師匠がダリやピカソではなく、「凝りすぎない画家」であるファン・ゴッホ、ブルーベリ、レオナルド・ダ・ビンチだと考えていた。
ズベーレフのどんな既存の枠にも収まらない絵画は、まず西側で知られるようになり、1965年、初の海外展がパリのMOTで開催された。
一方ソ連は、扇動者の作品を公にすることに消極的だったため、ズベーレフは個人的な展示会を開くことしかできなかった。1986年に他界した後、300点の作品がモスクワのトレチャコフ美術館に展示されて、ようやく日の目を見た。
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