アンドレイ・ズビャギンツェフ

家族の古いアルバムの白黒写真が一枚一枚、ゆっくりと入れ替わっていく。画面に映し出されたのは、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画『父、帰る』の最後の場面。観客は総立ちになり、15分近くスタンディング・オーベーションの拍手が鳴りやまなかった。

 2003年第60回ヴェネツィア映画祭でロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画『父、帰る』が大反響を呼び、金獅子賞を受賞した。

写真提供:kinopoisk.ru

 ズビャギンツェフ監督は俳優として、映画人生のスタートを切った。ノヴォシビルスクの演劇学校俳優科を卒業後、いくつかの舞台や映画に出演したが、ほどなくして俳優業をやめて、短編映画を撮り始める。2003年にズビャギンツェフ監督の最初の長編映画『父、帰る』が完成した。『父、帰る』は、ヴェネツィア映画祭のコンペティション部門に選出され、グランプリの金獅子賞を獲得しただけでなく、「愛と喪失と、少年が大人になっていく姿を描いた非常に繊細な映画」という評価を得て、新人監督賞も受賞した。

 さらに、この映画は世界各地の映画祭で28の賞を受け、73カ国で上映された。

 『父、帰る』は、若い2人の兄弟をめぐる悲劇的な寓話の映画である。2人の生活に突然父親が現れる。それまで写真でしか見たことがない、他人同然の不思議な男の出現は、2人の生活を一気に変えてしまう。父親は息子たちを静かな故郷の町の住み慣れた生活から無人島に連れて行き、そこで悲劇が始まる。

 『父、帰る』はユニークな成功作になった。映画には神秘的、宗教的な人生観、自然観がある。それはタルコフスキーとともに、ロシア文化からほとんど消え去っていたものだ。なお、ロシア映画で初めてヴェネツィア映画祭のグランプリを獲得したのは、タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』(1962年)である。

 『父、帰る』が公開されたあと、ズビャギンツェフ監督は、「タルコフスキー・コンテクスト」を21世紀にまで延ばした監督、と呼ばれるようになった。ズビャギンツェフ監督自身がそれを認めている。「ロシアの映画監督であれば、タルコフスキーの影響を感じずにいるのは不可能です。18歳の時、彼の映画を初めて観て以来、もうこの大家から逃れられなくなりました。ブレッソン、ベルイマン、クロサワの影響も大きいですが」。だが、ズビャギンツェフ監督に最も大きな影響を与えたのは、アントニオーニだった。「アントニオーニの『情事』を観て、言葉では伝えられない何かにぶつかりました…。その時から私は、この映画に背くことができないのです」。

『父、帰る』予告編(日本語字幕)

 寓意表現は監督にとって近しいもので、その次に製作した映画『追放』でも、そうした表現手法が用いられている。この作品は2007年に完成し、カンヌ映画祭で男優賞(金棕櫚賞)を受賞した。この映画でも、家族崩壊のテーマが中心に置かれている。「夫と妻、彼と彼女が反目し合う。これは、男と女の関係性、愛の脆さ、無理解から生じる悲劇、赦すすべを知らないことなど、古くからのテーマを新しい手法で描いている」と、インターネット誌『タチヤーナの日』の批評家アリョーナ・ドゥシカ氏は評している。

 ズビャギンツェフ監督にとって、家族のテーマが重要なのは、日常生活レベルではなく、むしろメタフィジックなレベルでのことだ。「私にとって重要だったのは、日常生活の局面ではありません」、と『チャースヌイ・コレスポンデント』のインタビューで同監督は述べた。「より重要なことは別の次元にあるのです。それは人間と神との相互関係です。『父、帰る』でも『追放』でも、これこそが私を決定づけるものでした」。

『追放』。写真提供:kinopoisk.ru

 2011年に封切りになった第三作『エレーナ』でも、夫婦のそれぞれが別の社会層に属する年配のカップルの物語を描き、家庭内不和を映画の中心に据えた。ここで躓(つまづ)きの石となるのは、愛の悲劇ではなく、お金だ。この映画は、2011年カンヌ映画祭公式セレクション「ある視点」部門審査員特別賞、米国独立系映画のサンダンス映画祭NHK国際映像作家賞(ヨーロッパ)など、いくつもの権威ある映画賞を受賞した。

『エレーナ』予告編(日本語字幕)
 

 ズビャギンツェフ監督は『ノーヴィエ・イズベスチヤ』紙のインタビューでこう語っている。「芸術的映画は、恐ろしくも素晴らしいフィクションとして、我々皆が囚われている無意味さという呪縛から、自分を解放させるために必要なのです」。それゆえ、この監督の映画には、現実の時間に重なるような、ゆったりとしたリズムがあり、それが観客に自己を顧み、熟考させることを促す。

 シンボルや記号や、つなぎ合うディテールに満ちたアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画が、タルコフスキーの映画と比較されるのも無理からぬことである。大衆文化が勝利をおさめる現代において、こうした映画こそ、真の映画の理想を内に保っているのだから。