極東の国境を守り続けたヴォロシロフ砲台

=ヴィタリー・アンコフ/ロシア通信撮影

=ヴィタリー・アンコフ/ロシア通信撮影

ウラジオストク近郊に位置するルースキー島の道から外れて数分進むと、ヴォロシロフ砲台の大砲が高々と伸びる、小さな森のはずれにたどり着く。9月に予定されているアジア太平洋経済協力会議の開催場所から、それほど離れていない場所だ。

 1930年代に建設された砲台は、ウラジオストク要塞でもっとも新しい大型砲台の一つで、ロシアの極東前哨基地の防衛設備として、ユニークなシステムを誇る。このシステムがあったからこそ、ウラジオストクは19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界有数の強靭な要塞と考えられたのである。 

 

ロシア東部前哨基地

 ウラジオストクは、地政学的条件により、創設された当初から軍事基地と考えられていた。極東の領土の安全性を脅かす可能性があったのは、大英帝国と、後に日本だった。極東の国境に強大な前哨基地を建設するには多くの時間を要した。

 要塞の建設は、軍事技術者のパーヴェル・ウンテルベルゲルによって着手された。彼はシベリアと極東の発展に40年の歳月を捧げ、その功績が認められて後に沿海州の軍事知事に任命された。皇帝政権は資金を惜しまず、1910年から1915年までの間に、当時としては破格の価格となる3000万ルーブルの金貨が建設に投じられた。

 建設中もさまざまな革新的アイデアが採り入れられ、かくして第二ピョートル大帝要塞は傑作となった。そしてこの要塞は、今日でも世界最大の陸上要塞である。

 1880年から1910年にかけて、合わせて12カ所の要塞と、ルースキー島およびムラビヨフアムールスキー半島の南部で、点状模様に広がる設備が数百個建設された。

 要塞の軍事力は、日露戦争の際に日本がウラジオストクへの攻撃を躊躇するほどのものとなったが、1918年、外国軍がウラジオストクに上陸すると、街の防衛機能は麻痺してしまった。当時の日本の新聞は「日本の胸元に突きつけられた銃が下ろされた」と書いた。

 1923年、沿海州でソ連政府が承認された。1930年、防衛施設網に新たな設備が追加されることとなり、ヴォロシロフ砲台が誕生したのである。現在、ここは太平洋艦隊博物館の分所で、ロシアで唯一残っている口径305ミリの大砲の砲台である。防衛設備の多くは1990年代後半まで軍によって使用され、一部は現在でも軍事施設の一部となっている。

 

遺跡の保存問題

 ソ連が崩壊した1990年代初め、多くの軍部が解散し、ルースキー島も解放された。文化遺産としてウラジオストク要塞の設備を保存するという大統領令が出されたにもかかわらず、金属収集者が少しずつ遺跡を持ち去るようになった。防衛設備の一つであるベズイミャンナヤ(無名)砲台だけが博物館に変わっているが、その他の設備はほぼ監視のない状態で保存されている。防衛設備は徐々に崩壊し、価値を持たなくなってきている。

 ウラジオストクには歴史遺産の運命を気にかける人もいる。「ウラジオストク要塞は、122か所の大きな設備からつくられ、そのうちの多くが複数の建築物を組み合わせたものとなっています。すべてを計算すると、500基以上ものコンクリート建築物になります。ウラジオストクは事実上、要塞の中にあります。当局は設備の崩壊を防止するためにあらゆる手立てを尽くしていますが、街から離れた場所では作業が困難になります。また、行政手続きの煩雑さにも時間を奪われます。要塞設備使用申請書の一部は、2年前に受け取ったものでまだ手続きが完了していないものもあります」と文化省歴史・文化遺跡管理利用局極東支部のアンナ・ミャルク氏は説明する。

 個人主導による遺跡保存も解決策の一つではあろうが、要塞を観光施設に変えることに賛同する投資家を見つけるには、国が明確かつ簡略な投資規則を定める必要があり、そのような法的環境はまだ整っていない。

 ウラジオストク要塞を観光施設に変えれば、良い金脈になるはずだ。例えば中国では、1930年代に日本人が建設した防衛地区が丸ごと保存されている。中国政府はハルビン大学に多額の資金を割り当て、防衛地区の歴史を研究させている。研究に基づいて博物館を建設し、多くの旅行客を呼び込む計画を立てているのだ。